どらごにっくないと

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放課後の自由を取り戻せ

  • 2008-06-30T15:29:37
  • 桜紫苑MS
【オープニング】
 細いフレームにはめ込まれたレンズの奥から覗く鋭い眼光。きっちりまとめられ、高く結い上げられた髪。
 彼女は、この近辺で有名な女性だ。
 それまで、ごくごく平凡な塾の講師だった女性。フルネームを知る生徒はいない。ただ、大野先生とだけ、呼ばれていた。化粧気もなく、ぼそぼそと教える英語の授業を聞く者などほとんどいなかった。
 だが、ある日を境にして、彼女は変わった。
 運命の相手、自分を導くファンタズマと出会って。
「そこの生徒! どこの学校の者か!」
 飛んで来た厳しい声に、本屋から出て来た学生は凍り付いたように動けなくなった。
「本屋で購入する事が出来るのは参考書と文学集のみのはず」
 乗馬用の鞭で、彼女は学生が持つ本屋の紙袋を叩く。
「開けて見せなさい」
 真っ赤に塗られた唇が、酷薄な笑みを刻む。この地区において、子供達の教育に関する権限を担ったグレゴールたる彼女の言葉は、風紀の教師以上に絶対服従を強いる。
 おずおずと、学生は震える手で袋を開いた。
「‥‥これは何か」
「‥‥ファッション雑誌です‥‥」
 どれほど禁じられていても、年頃の少女はやはり流行が気になるものだ。例え、同じようなデザインの服が並んでいても、それは流行のファッションとして少女達の間に浸透していく。
「勉学には必要のないものだな」
 しかし、そんな少女の気持ちなど微塵も察する事なく、グレゴールは薄いその雑誌を破り捨てた。
「勉学に必要ないものに興味を持つ事は許さない。そんなものは、学ぶべき事を学び終えてより後になさい!」
 俯いた少女から、グレゴールとなった講師は視線を巡らせた。
「本屋に、こんな雑誌を並べておくから、子供達が堕落していくのだ」
 ぱしりと、手に鞭を打ち付ける。
「本屋だけではない。飲食店で無駄話に興ずる者も、あろう事かゲームで貴重な勉強時間を費やしたりするのも、全ては子供達の目の前に「そのようなもの」を並べて置く大人達が悪いのだ」
 きらりと、眼鏡のレンズに灯り始めた街灯が反射する。
「いっそ、全てを無くしてしまおうか」
「茉莉‥‥」
 そっと微笑んで、彼女の隣で成り行きを見守っていた女性は彼女の手を取った。
「あなたが、望む通りになさいな‥‥」


 抑圧された子供達を哀れと思う逢魔の願いを流伝の泉から掬い上げて、逢魔の伝(つて)は魔皇達に語る。
「子供達が勉学に集中出来るように‥‥。それは教育者として願ってもおかしくはない事でしょう。ですが」
「それがグレゴールの手によるもので、明らかに行き過ぎた行為だという所に問題があるな」
 集った魔皇の1人が呟く。
「その通りです。そのグレゴールは、地区内の本屋、飲食店からゲームショップ、映画館などの娯楽施設への学生達の出入りを禁じました。禁を破った者達には罰が課せられるそうです。そして、出入りさせた店側にも‥‥」
 グレゴールの横暴に、街の人達が困っているというのであれば放ってはおけない。
「勿論、勉強も大事だが、そのグレゴールから子供らしい生活を取り戻す‥‥それでいいんだな?」
 はいと伝は頷いた。
「グレゴールは、放課後になると府立植物園近辺を巡回しているようですわ。不定期に、彼女自身が講師として塾の教壇に立つ事があるのですが、その日は現れません」
 背後からかけられた声に、魔皇達は声の主を振り返る。着物にエプロンの女性は、丁寧に頭を下げた。鞍馬にある和風喫茶、翠月茶寮の主だ。
「ご存じの方もおられましょうが、皆様が京で動かれる際にご協力下さる葵様です」
 伝が、葵と微笑み合って頷く。
「わたくしの店は、この隠れ家(かくれや)と繋がっております故、お気兼ねなく、なんなりとお申し付け下さいませ」
 魔皇達の間を抜け、葵は扉へと手をかけて、動きを止めた。
「‥‥かのグレゴールは、権威をもって地域に働きかけております。本心はどうあれ、それを甘んじ、受け入れているという事は、つまり‥‥」
「地域住民はグレゴール側って事だ」
 沈黙。それが答えであった。
「逆らうよりも、従う方が楽なのですわ。ですから、皆様、どうぞお気をつけて」


【本文】
●子供達の現状
 息詰まる時間が終わった。
 講師がドアの向こうへと姿を消したと同時に漏らす安堵の吐息が、集まって教室に満ちる。
「はふ‥‥」
 ひどく疲れを感じて息をつくと、後ろに座っていた少女が肩を叩く。
「大丈夫?」
 気遣いを見せる少女に小さく頷きを返し、彼女は髪を掻き上げようと手を上げた。だが、いつものように指にさらりと絡む感触はなく、代わりに固く編まれた髪の束が触れるのみ。
「どうかした?」
「何でもないの。それよりも、ここっていつもこんな感じ?」
 尋ねた彼女の周囲に、帰り支度を整えた者達が集まって頷く。
 彼らの顔に浮かぶのは疲れと苛立ち。娯楽を封じられた事で、日々に蓄積されるストレスを発散出来ていないのか。
「と‥‥永遠」
 ふいに名を呼ばれて、顔を上げる。
 親しそうに名を口に乗せたくせに、視線は斜めに逸らして佇む男子生徒へ、彼女は眼鏡の奥の瞳を和らげた。演技ではなく、ふいに胸をついた微笑ましさに。
 周囲から冷やかされつつ、彼女は鞄を手に取ると彼の元へと歩み寄る。
 どこか着心地悪そうに学生服を着こなした青年は、ごく自然に彼女の隣りに並ぶとその鞄を受け取った。
「帰り、あそこ寄っていかないか?」
 ごくごく普通の会話に反応したのは、他の生徒だ。
「駄目。どこか行くなら止めた方がいいわ」
「どうして?」
 小首を傾げた少女に、生徒は口々に先ほど教室を後にした講師による厳命と、それを破った者の受けた罰を告げた。程度によっては様々だが、苦痛以外の何物でもない罰を。
「見つかったら、きっと怒られて罰を受けるわ」
 鈴を転がすように笑って、少女は傍らの青年を見上げた。
「大丈夫よ。ねぇ?」
「あ‥‥ああ、そうだな」
 うんと頷いて、ぱんと手を叩く。
「皆も行かない? 美味しいクレープ屋さんが出来たみたいなの」
 学校や塾の帰りに買い食いなど、どれほど振りに聞く言葉なのだろうかと、彼らは顔を見合わせる。
「へぇ、んなもんが出来たんだ」
 離れた場所で、何の興味も無いと参考書を片付けていた青年が口角を上げた。
「面白そうじゃねぇか」
 同意を見せる事さえも、罪だとでも思っているのか。封じ込められた過去の楽しい記憶を思い出させるように1人1人の目を覗き込んで、青年は、にやと笑った。
「前はよくやってたんだろ? 帰りにバーガーショップでたむろってたり」
 それはそうだがと躊躇する生徒の背を後押ししたのは、まろやかな声。
「ね? そうしましょう?」
 やんわりと促され、戸惑っていた者達の表情に変化が現れた。講師の目を気にして、しかし、弾んだ声が彼らの周囲に満ちる。そんな生徒達に、御神楽永遠(w3a083)は夜霧澪(w3d021)と頷き合った。
「後は奎に任せよう」
 ええと、永遠はちらりと背後を窺う。
「皆を公星の所まで連れてくまでは足止めしといて貰わないとな」
 彼らの隣りに並んで、津久名(w3g183)は小さく肩を竦めた。
「ったく。勉強は大事かもしれねぇけどよ、こんなんじゃ息が詰まっちまう」
 先ほどまでの講義を思い出して、名は深く胸に空気を吸い込んだ。何やら、まだ息苦しく感じる。
「本当に。‥‥そういえば」
 名の言葉に同意を示すと、永遠は隣りに立つ青年に笑いかけた。
「よくお似合いですよ」
 そっぽを向いた澪の脳裏に過ぎるのは、ここに来る前の騒ぎ。
 自らもセーラー服を着込み、瞳を輝かせて己が魔皇に迫る逢魔の小百合に、非常に楽しそうに笑って彼の退路を絶った友のお陰で、澪は仕事の前から疲れる事となったのだ。
―前門のサリー、後門のリアン‥‥。
 心中に刻み込んだその言葉を澪が噛み締めた時に、女生徒の1人が永遠へと語りかけた。
「夜霧君って、御神楽さんの彼氏?」
「え‥‥ええ」
 疑われぬよう、永遠は澪の腕に手を絡めた。
 途端、項にちりと走る感覚。路肩で経を読み上げていた僧の声が一際大きくなる。他の者に気づかれぬように、澪は大きく息を吐き出したのであった。

●接触
「先生は生徒が学ぶ為に最適な環境を整えておいでになるわけですが‥‥」
 外を眺めていた講師は、取材を申し込んで来た女を振り返った。
「ここしばらく、私の周囲を嗅ぎ回っていたのは貴女か」
 閂奎(w3f784)はほんの数秒、言葉に詰まる。だが、それを指摘されても困りはしないと、彼女はすぐに思い直した。大野の周囲、街の様子を調べれば、地域住民から情報が彼女へと届く。
 それは、奎の逢魔が案じた通りであり、奎自身にも分かっている事だった。
「はい。先生が子供をどのように守られているのか、地域での評判を伺って参りました」
 何でもない事のように、さらりと答えて奎はメモへと目を走らせる。
 ふん、と大野は鼻を鳴らした。
「誰かに誉めて欲しいわけではない」
 暗に、自分の信念を貫くだけだと言う大野に表情を曇らせる。これは、説得は難しいかもしれない。
「それで‥‥大野先生?」
 彼女の隣りを抜けて扉へ向かう大野に、奎は慌てて声をかけた。
「調べられたのならば、改めて問う必要もないでしょう。私は、巡回に出ます」
「いえ、まだお伺いしたい事が‥‥。先生!? 先生!」
 時間的に、永遠達は御堂のクレープ屋へ向かったばかりだろう。このまま鉢合わせさせるのは、まずい。メモとハンドバックを掴んで、奎は大野の後を追った。

●学ぶ事、遊ぶ事
 丸い鉄板に落とされた生地が平らに伸ばされたかと思う次の瞬間に、それは御堂力(w3a038)の持つパレットナイフによって翻った。格闘家を思わせる厳つい手が、素早くそれにフルーツを乗せ、クリームを絞り、カラフルな粒を撒く。
 一連の、流れるような動作に見惚れていたのは力の逢魔、静夜と半強制的に残された澪の逢魔小百合だ。
 仲良く目を見開く逢魔に、こほんと力は軽く咳払う。彼女達の役目は客のように見物する事ではなく、客を呼ぶ事だ。それも、学生達を。
 学生が集まらなければ、放課後の自由を取り戻す為の狼煙が上がらない。彼の欧州で磨いて来た腕で、学生達の奮起を誘い、彼らを縛りつけるグレゴールから妥協を引き出す。
 キーボードを叩き続けるジャンガリアン・公星(w3f277)の準備も整ったようだ。
 無造作に並べられた椅子に腰掛けてコーヒーを飲む男も、携帯ゲーム機に興じている娘も、それぞれの時間を過ごしている風を装って、その時を待つ。
 やがて、浮かれ騒ぐ学生の一団が姿を現した。待ち構えていたように、静夜と小百合が呼び込みを始める。
「あんまり目立つのはまずいんだよな」
 些か棒読み気味に、名は少女達に向かって指を口に当てた。静かにと言われて、逢魔達はここぞとばかりに学生に疑問を投げかける。
 彼らの口から近隣に徹底された規則を引き出した所で、リアンは薄く笑みを浮べて立ち上がった。
「君達は、それをおかしいと思わないのかな?」
 遊びたいが、罰が怖い。
 そう尻込みする者達に、テーブルの上に広げたパソコンを示す。
「例えば、これはどう?」
 クリック1つ。液晶の画面に現れたのは、RPG風な世界の全景。娯楽を封じられた子供達には、久方振りに見るゲーム画面だ。
「まだ開発中なんだけど、これは楽しみながら勉強が出来るというコンセプトの元に作ったゲームでね」
 君‥‥と、リアンが指差したのは、携帯を耳に当てていた永遠の隣りで面白そうに成行きを見守っていた澪だ。
「そう、君。ちょっとモニター第1号になってくれるかな?」
 対戦するのは、気合い入りまくりで不敵な笑みを浮べた男‥‥リアンの逢魔、鳳だ。
「君はこのキャラクターを動かして、彼と競う。経験値が溜まればレベルアップするし、ボーナスも出る」
 軽快な音楽が流れて、ゲームの始まりを告げる。
 覗き込む視線の中、澪と鳳はそれぞれのマウスを動かした。
 賑やかになった一角から数歩下がり、永遠は本を読んでいた男へ背中合わせに囁く。
「天舞から連絡が。グレゴールがこちらに向かったようです」
「む? 少々、予定より早いようだが」
 ページを捲る手を止めて、アルバート・ウェッジウッド(w3a375)はやれやれと息をついた。
「学生達は、まだ畏縮しているみたいだけど‥‥大丈夫。後は私達に任せて」
 携帯ゲーム機が目を離さずに、宮間雫(w3g350)が呟いた。独り言のようなそれに、アルバートもカップを手に取り、頷きを返す。
「そう、その通りだね。後は我々に任せて、君達は彼らの背中を、もうちぃとばかり押してあげたまえ」
 甲高い声が響いたのは、それからしばらくしてからの事であった。
 ゲームの展開に、盛んに声援を送っていた者達が、その場に固まる。
「こんな場所で何をしているのか!」
 つかつかとパソコンが置かれたテーブルに歩みより、大野はマウスに添えてあった澪の手を捕らえた。途端に、調子はずれの音楽が鳴る。
 画面上、SDキャラがちょこちょこと飛び出したかと思うと澪の動かすキャラに銃を向ける。ぽんと弾けた銃から紙吹雪が飛び出すと同時に、澪のHPがごっそりと減った。
「‥‥」
 手をグレゴールに掴まれたまま、澪は画面の上で得意そうに跳ねるSDキャラを凝視した。
 思わず吹き出す名に、口元を押さえる永遠。「可愛い〜」とはしゃぐ声は、小百合のものだろうか。どう見ても、彼をモデルにしたとしか思えないSDキャラに、澪は1人涼しい顔をしたリアンを睨みつける。
「何がおかしい!」
 苛立ったように怒鳴る大野に、リアンは手を伸ばした。澪を捕らえる手を静かに外させて、パソコンの画面を示す。
「平安京に遷都した年は何年でしたか? レディ」
 唐突な質問に眉を動かした大野の代わりに、名がキーボードに手を伸ばす。
「なくようぐいす‥‥ってな」
 数字を打ち込むと、正解を示す丸が画面に現れた。
「なぁ、先生。勉強は、机に向かわなくても出来るもんだと思うな。例えば、洋楽を聞いて英語を覚えたりさ」
 名の言葉に同意して、リアンは大野を真っ直ぐに見る。
「そうです。参考書や教科書以外から学ぶ事は、案外多いものですよ」
 反論しようとした大野の言葉を遮るように、大きく椅子を動かす音が響いた。読んでいた本を置いて、アルバートが立ち上がり、服の皺を払う。
「一理ある。多くの事に触れ、興味を持つ事で子供は学ぶ楽しさを知るのではありませんかな?」
 アルバートは軽く大野に会釈した。
「突然に失礼を。だが、教育に携わる者として、黙って見ていられませんでしたので」
「ここでは落ち着いて話せないわ。中へ入りませんか?」
 携帯ゲーム機の電源を落として、雫は顔を上げた。彼女の視線は、植物園の入り口へと向けられている。
「先生、確かにここでは‥‥」
 大野を追って来た奎が、彼女に衆目を思い出させた。学生だけではない。大通りを行き交う人々の目もある。きっとアルバートを見据えて、大野は頷いた。
「分かりました。お前達は、ここで待っていなさい。逃げても無駄です。顔は覚えています」
 アルバート達と連れ立って、植物園の中に入って行く大野を不安そうに見送って、学生達は気まずそうに俯いた。自分達がゲームに興じていたわけではないが、寄り道の現場を見つかってしまったのだ。言い訳は出来ない。
「さぁて、あの先生はんが出て来るまで、これのモニターやるんは誰や?」
 沈んだ空気の中、鳳の明るい声が響いた。
「モニター料は‥‥そやな、ここの美味しいクレープなんてどうや? こいつの奢りやで」
 指差されたリアンは、鳳の予定外な行動に目を見開いて否定の言葉を紡ごうとし、太い腕にそれを止められる。
「人間なんてものは、禁止されると却ってやりたがるものだ」
 静夜と小百合が、学生達の間を回って注文を取る。植物園の門を気にしながらも、メニューを指差す学生達に、力は笑みを浮べた。
 当人にとっては微笑みのようであったが、傍目には不敵に笑う悪役のそれだ。
「まぁ、そこに付け込む輩も世にごまんと居るがな」
 お代、と差し出された手に、リアンはぐったりと椅子の背もたれに体を預けたのだった。

●末路
 植物の葉を手に取りながら、アルバートは大野を振り返った。
 一般客も多い場所で争う気は、彼には全くなかった。大野の側で一言、二言と会話を交わしている奎や雫も同様の考えのようだ。
「古来より、植物は染料や香料に使用されて来た」
 アルバートの声に、大野は顔を向けた。
「それぐらいの事は知っている」
 ちょんと、手にした葉を突っついて、アルバートは肩を竦める。
「では、当然、その染料や香料が嗜好品や娯楽に用いられた事もご存知かな?」
 それは‥‥と言い淀んだ大野に、反論の隙を与えずに続ける。
「Kyotoは文化の都だ。千年を越えて積もった文化の上に、この街はある。文化は遊び心の中から生まれたものも多い」
 黙り込んだ大野の手に手を重ねて、雫は園の一角を指した。
「見て。ハウスの中で大切に育てられている花があるわ。でも、温度も湿度も調整されて育つ花々は、庇護の手を離れては枯れてしまうしかない」
 大野を見る雫の瞳は、真摯な光を宿している。
「まるで先生と子供達のようだと、私は思います。勉学に必要ないものから隔離して、大切に育てて‥‥でも、先生は彼らを一生、守ってあげられるのでしょうか」
 なるほどね、と奎はハウスと大野を見比べる。
「子供を守ろうとする先生の考えは分かります。ですが、それは本当に子供の為になるのでしょうか?」
 眉を寄せた大野に、奎は微笑んだ。
「先生ご自身の事を、思い出してみて下さい」
 自分を見る3人の穏やかな表情に、大野は胸の辺りで手を握り締めた。言われて振り返れば、彼女自身にも覚えがある。遠い日の、温かな思い出が。
「騙されては駄目!」
「この! まちやがれ!」
 1人の男に追われ、木々の間から姿を現した娘は叫ぶ。
「魔皇よ! 魔皇の口車に乗せられちゃ駄目!」
 はっと我に返った大野は、眦を吊り上げた。反射的に手を振り上げる。
「奎っ!」
 魔皇を守るべく、逢魔はその攻撃を大野へと向けた。
 悲鳴のような声が響き、娘は自分のグレゴールの前へと飛び出す。
 一瞬の出来事であった。
 奎を守った貪狼の一撃はファンタズマを切り裂いた。か細い断末魔だけが、その場に響く。
「大丈夫か、奎」
 崩れたファンタズマの傍らで自失した大野を見遣りながら、安否を問うた逢魔、貪狼の頬に鋭い痛みが走った。
 奎が、彼の頬を打ったのだ。
「な‥‥何しやがるんだっ!」
「何故、攻撃したの! 何故!」
 呆然とする貪狼の隣りで、雫は俯く。予期していた結末の1つ。そう思ってみても、やはりどこか遣る瀬無い。ファンタズマを失ったグレゴールの末路は、彼らにはどうする事も出来ないのだ。
「相反する者の運命‥‥か」
 暮れ行く空を見上げて、アルバートは呟いた。無性に、心を癒してくれる存在に逢いたくなった。
「‥‥折角だし、花を買って帰ろうかな」
 座り込んだままの大野に背を向けて、アルバートは奎と雫を促し、その場から去った。運命が決した以上、彼女にかける言葉は、もうありはしないのだ。
 ただ、魂の安からん事を、彼は祈ったのだった。
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この小説は株式会社テラネッツが運営する『WT03アクスディア 〜神魔戦記〜/流伝の泉』で作成されたものです。
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