どらごにっくないと

カウンターカウンターカウンター

第2楽章

  • 2008-06-30T15:38:10
  • 桜紫苑MS
【オープニング】
「お食事中ですか?」
 招き入れられた月見里葵の視線の先には、逢魔達が囲むテーブルの上に乗った出前の残骸。ああと彼は朗らかに笑った。
「出前は味気なくてイカンわ」
「‥‥‥‥お寿司が?」
 それが、誰の財布から出たものであるのかは尋ねなかった。
 心中、同情と慰めの言葉を呟くと、葵は場所をあけてくれた逢魔達の間へと座る。
「それで、何か分かりましたか?」
「とりあえず、友の会の方に怪しい動きはないみたい」
 むぅんと眉を寄せた逢魔の少女に、「何故、チャイナドレスなのか」とも聞かなかった。恐らくは、彼女の主たる魔皇の命であろう。
 ‥‥当の本人が満更でもなさそうだったので、葵はそれで自分を納得させた。ただ‥‥。
「脚、見えてますよ」
 それだけは、注意しておかねばならない。
「私の方でも調べましたけれど、三角関係は外野が騒いでいるだけのようですね」
「三角関係やない?」
 尋ねた部屋の主に、ワンピースの胸元に大きなリボンをつけた逢魔の少女はええと頷く。
「聞いた話によると、杏さんにとって、薔薇の君は熱心なファンの1人にすぎないようで」
 その言葉を引き取ったのは、魔皇と共に祇園の甘味処へ出かけた2人を観察していた男だ。
「‥‥2人の間にわだかまりはなさそうだった」
 それどころか、勝ち気な美穂が精神的に杏に頼っているように見えた。
「音楽は魂の共鳴を呼ぶ。だが、突き詰めようとすれば孤独が見える」
 彼女達と同じく、音の道を進む彼は華やかな舞台の裏に隠れた孤独を知っていた。自分の音を極め、磨く事が出来るのは自分だけ。他人の手など、借りられるはずもない。
 手を挙げたのは、美穂と同じヴァイオリンで楽団に入った逢魔だった。
「鳴海様と朝霧様に関しまして、私もいくらか調べて参りました」
 リハーサルの後、彼女は杏と語らう時間があった。祖母という触れ込みの魔皇の姿はなかった。汚した美穂の服も消えていたから、何らかで動いている事は確かだ。
「平安フィルに入る事はお2人の幼い日からの夢だったそうです。初めて、平安フィルの演奏を聴いた時に決意されたとか」
 名の売れていない地方楽団の演奏に、「音を楽しむ」事と「心を届ける」事を教えて貰ったと、杏は笑っていた。
「その頃の団員で、現在残っていらっしゃるのは柳瀬様だけです」
「柳瀬殿は‥‥」
 厳めしく皆の話を聞いていた巨漢は、浮かぬ顔をした古参チェリストから聞き出した話を語る。
「美穂殿と杏殿は昔から変わらぬ、と」
 集った者達が顔を見合わせ、男は重く息を吐き出した。
「それが何を意味しているのか、儂には分からぬ。あの2人がグレゴールであるかどうかも、判じられぬ。姫が何と判断されるか、そのお言葉を待つつもりだ」
 ふむと、執事然とした老爺は箸を置くと腕を組んだ。
「わたくしも、それとなく観察致しておりました」
 老爺は目の前にいくつか転がった魚型の醤油入れを並べた。
「沢渡氏と美穂嬢は、曲について意見がぶつかっている。柳瀬氏は沢渡氏が来てより後の楽団に不満を持っている」
 醤油入れを人に見立てて、怪しいとされる者達の人間関係を図式化していく。
「‥‥こうして見ると、皆、それぞれに事情がおありのようです。ここに、薔薇の君なる人物が加わり、更に複雑になっております。スポンサーたる美穂嬢の父上を入れるかどうかは判断がつきません」
 それならば、と私服をきっちり着込んだ娘が口を挟む。
「美穂様のお父様はシロのようです」
 彼女の手には携帯がある。どうやら、彼女の魔皇から連絡が入ったらしい。
「なるほど。‥‥そう言えば」
 老爺は巨漢を窺う。
「そちらの姫様がご懸念されていた事はいかがでしたかな?」
「‥‥柳瀬殿の孫の事か。御年2歳になられるお子は無関係であろうな」
 軽やかな電子音が短く鳴る。ワンピースのポケットから携帯を取り出した少女は、送られた情報に表情を引き締める。
 空になった醤油入れを1つ取ると、並べられた人間関係の中に置いた。
「魔皇殿から連絡か?」
「はい。調査が必要な人物として、ここに1人追加だそうです」
 怪しいとされる4人の真ん中に置かれた醤油入れに、部屋の主が怪訝そうに少女を見る。
「日渡奈々さん。楽団の事務局に、この春から入った方です」
 事務局の人間だと、いつ、4人に接触していてもおかしくはない。
 彼らの話を聞いていた葵は、僅かに目を細めた。
「ともかく、美穂さんのお父さんを除く関係者が全員集まるのは、明後日の本番のようね」
 リサーチの結果から、薔薇の君は本番にしか現れない事は分かっている。
 つまり、ここで名が上がった者が全員揃うのは、明後日の土曜、夜18時の開場以降。
「人間関係はある程度見えて来たようだし、後は、誰がグレゴールなのかを特定し、神帝軍の目論見を暴く‥‥」
 一斉に頷いた逢魔達に、葵は深々と頭を下げた。
「魔皇の皆さんと協力して、神帝軍の影を払って下さいませ」


【本文】
●闇取引
「‥‥約束のブツだ」
 男が低く言った。
 薄汚れたビルの合間、人通りの多い通りの喧騒から切り離された狭い闇の中、黒いスーツに金のボタンが光る。
「ああ、確かに。おおきに」
 答える声の主は若い。鳥丸通りを爆走していそうな雰囲気を漂わせた青年は、他人に見られないように隠しつつ中を改める。光が射さないこの場にあっても眩しい程に白いソレに、口元を引き上げる。
「上物やな」
「当然だ」
 磨かれた黒い革靴の先で、落とした煙草を踏みにじった男に、青年は笑い声にも似た吐息を漏らす。
「ほな、金はいつもの通りに」
「‥‥分かった」
 それだけが、全て。
 何事もなかったかのように、2人は別れた。

●楽団の内側
「沢渡さんってなんだか怖い」
 観客に手渡すプログラムに様々なチラシを挟み込みながら、御神楽永遠(w3a083)は、ぽつりと呟いた。
 そんな永遠に、チラシの束をさばいていた日渡奈々が手を止める。
「怖い‥‥ですか?」
「美穂さんを目の敵にしているみたいだし、柳瀬さんもなんだか辛そう。指揮者って、皆、あんな感じなの?」
 常任指揮者は沢渡だが、内外の指揮者をゲストとして招く事もある。彼らを比べているのであろうか。ややあって、奈々は口を開いた。
「人それぞれの差はありますが、音楽に対する姿勢は似ているかも。決して妥協を許さずに、自分の音楽を追及しているのではないかと」
 一言一言を考えながら語る奈々を探るように見て、永遠は彼女に気づかれないように溜息をついた。
 奈々は、沢渡の事を詳しくは知らなさそうだ。
―‥‥沢渡はグレゴールではない、と。
 演技であるならば話は別だが、この様子では、それも無さそうだ。
 事務局に保管されていた奈々の履歴書におかしな所はなかった。その裏付けを取っている夜霧澪(w3d021)の逢魔、小百合の報告待ちだが、それとなく彼女に過去の話を尋ねてみてもはぐらかされてしまう。
 奈々がファンタズマではないかと言う疑念は、永遠の中で確信へと変わっていく。
「ああ、奈々ちゃん! ここにいたのかい」
 まだ関係者しかいないロビーに顔を見せた山田ヨネ(w3b260)は、奈々を手招いた。
「どうしたの? おばあちゃん」
 連れて行かれた先は控え室。団員達の楽器や私物が所狭しと並べられている部屋だ。その荷物の山の真ん中で、ヨネは途方に暮れたような表情を作る。
「松脂をマリが忘れちまって。こっそり入れといてやろうかと思うんだけど、楽器ケースがどれも同じに見えて分かんないんだよ。勝手に開けるわけにゃいかないしねぇ」
 奈々は軽く笑った。
「そうね。ちょっと見ただけでは分からないわよね」
 色や多少の形状違いはあれど、楽器ケースはよく似ている。それが何十も並ぶと、どれが誰のものか分からなくなっても仕方がない。
 だが、奈々は迷う事なく1つのヴァイオリンケースを持ち上げた。
「はい。マリさんの楽器はこれですよ」
 さすがに、ヨネも驚いた。演技でも何でもなく、素直にそれを口に乗せる。
「楽器ケースはどれも似ているので、皆さん、目印をつけているんです」
 ヴァイオリンケースを差し出しながら、恥ずかしそうに視線を下げた。
「私は春に入ったばかりなので、そうやって見分けるしか出来ないんです」
「いや、それでも凄いもんだよ」
 感嘆の籠もったヨネの言葉に、奈々はくすぐったそうに首を竦める。
「本当は、もっとちゃんと皆さんのフォローが出来るようにならなくてはいけないのですけれど。‥‥少しでも、役に立ちたいんです」
「春といやあ、神帝様がいらしたのもその頃だねぇ。さしずめ、奈々ちゃんは平安フィルへの神様の使者ってトコだね」
 そんな、と奈々は頬を染めた。
「私なんかが神様の使者だなんて‥‥って、駄目ですよ! おばあちゃん!」
 きりきりと糸巻きを巻いていたヨネからヴァイオリンを取上げると、奈々は慌てて糸巻きを緩めた。だが、それは少し遅かったようだ。鈍い音を立てて、弦が切れる。
「おや‥‥」
 途切れた言葉の先に「残念」の文字を埋め込んで、ヨネは弦の切れたヴァイオリンを見つめた。思った程には弾けなかったようだ。
「ほらね、危ないでしょう?」
「鉄の線でも切れるもんなんだねぇ」
「そりゃあ。弾いている時に切れると、稀に顔や手に怪我する事もありますし‥‥今、切れてよかったのかもしれませんね」
 演奏中にマーリを襲うトラブルを回避出来たと喜ばれて、ヨネは気まずそうに頬を掻いた。
 弦を張りなおしてくれると言う奈々の言葉に甘え、控え室を出たヨネは、ドアの傍らで気配を殺して腕を組んでいた澪と顔を見合わせた。
「で、どうだったんだい?」
「小百合が住基ネットをハッキングした。結果は『該当者無し』だ。永遠が調べた住所には、ちゃんと住んでいるみたいだがな」
 ふぅんと、ヨネは閉じた扉の向こうに残した娘の姿を思い浮かべる。
「いい子なんだけどねぇ」
 表情を消したまま、澪は続ける。
「リハーサルの日から、奈々の行動をそれとなく探っていたが、その間、個人的に接触をした者は2人」
「‥‥ずっと尾行てたのかい? 若い娘さんを?」
 ヨネの言葉に含まれる非難に、澪の眉がぴくりと跳ねた。
『ストーカーに間違われないように』
 そう念押しした幼馴染の、半分面白がっている表情が、肩を竦めた仕草が、一瞬のうちに澪の脳裏に蘇える。
 幾分苛立たしそうに、澪は語調を荒げた。
「1人は見た事がない男。茶色の髪の‥‥。恐らく、あれが噂の薔薇の君だ」
 男の前で、奈々は気の毒に思えるほど畏縮していた。彼が奈々のグレゴールだとは、澪には思えなかった。それよりも‥‥。
「もう1人は、ここの団員だ。そいつは―」

●グレゴール
 最後の打ち合わせの後、水本一郎(w3b359)は杏を呼び止めていた。
「君に話があるのだが」
 何の疑問も抱かないように、杏ははいと笑って頷く。本番まで後僅か。さほど時間は取れない。
 水本は、練習室の1室に杏を招いた。
 中へ入ると、影山が静かに扉を閉める。
「単刀直入に聞く」
 首を傾げた杏に、水本は沸き上がる感傷めいた気持ちを押さえ込み、低く尋ねた。
「君は、グレゴールだな」
 杏は瞬いた。
 だが、すぐに肯定する。何の邪気もない笑顔で。
 どうしてと尋ねようとした水本は、その問いを飲み込んだ。神帝軍のグレゴールである事を恥じる者はいない。むしろ、誇らしく思っているはずだ。
 彼女は、自分が正しく、道に悖る事をしていないと信じている。
 水本は影山と視線を交わした。
 2人で探し出した、杏と美穂が感銘を受けた頃の平安フィルの記録。その音は全くの素人楽団。だが、音楽が好きで好きで堪らない気持ちが、何年も経ち、劣化したテープの中からも溢れ出していた。
 その演奏を聞いて、杏は、美穂は音楽の道を歩む事を決意したのだ。
 迷ったのは数秒。目を閉じ、水本は手にしていたフルートを口元に当てる。
 奏でる旋律は「浄夜」。古いテープに刻み込まれた音楽を愛する心までも再現すべく、彼は全身全霊を曲に込めた。
「あんた達が感動した音楽、それをアニキは今夜の演奏で再現したいと思っているんだ。だから、キミも協力してくれないか」
 静かに語りかける影山の言葉に、杏は輝くばかりの笑顔で彼を振り返る。紅潮した頬に喜色を浮かべ、彼女は大きく頷いた。
「勿論! 喜んで!」
 心底から嬉しそうに答える杏へと視線を走らせて、水本は僅かに表情を曇らせたのであった。
 そんな楽屋裏のやりとりを知る由もない開場寸前のロビーの片隅、徐々に高まっていく期待に声のトーンも高くなる人々の目から隠れる死角で、逢坂薫子(w3d295)は千代丸の鳩尾に膝蹴りを埋め込んでいた。
「ま‥‥魔嬢様、い‥‥今のは、さすがに効きましたぞ‥‥」
 少しばかり乱れた髪を直し、一瞬だけの攻撃で捩れた服の皺を払って薫子はにこやかに微笑んだ。上品な笑みの形を作った唇に細い指先を添えたお嬢様スマイルは、どこに出しても恥ずかしくない完璧なもの。
「いい加減にしろよ? 真面目に仕事しねぇなら、今度は脅しじゃすまねぇぞ?」
「先ほどのが脅し‥‥ですか、魔嬢様‥‥」
 添え付けの椅子へと優雅に腰掛けて頷くと、うるうると涙目でハンカチを噛む千代丸にも座るように促す。
 会話さえ聞えなければ、場に不慣れな老人を気遣う優しいお嬢様だ。
「ともかく。皆の話を総合して考えると、奈々ちゃんって子がファンタズマだな」
「さようでござ」
「んでもって、グレは彼女に花束を渡した薔薇の君」
「そうでご‥‥」
 千代丸の相槌は、考えを纏めている薫子の助けになっているのか、いないのか。黄昏た息を吐き、視線を泳がせた千代丸を見る限りでは役に立っているどころか眼中外であるようだ。
「それと、杏ちゃん」
 言い切った薫子に、千代丸が目を見開いた。
「グレゴールは2人ですか?」
「俺の勘だけどな。ま、楽団の中は他の奴らに任せて、俺は薔薇の君を探るとすっか。どうやら、ご本人の登場のようだしな」
 それまでとは違う華やぎが、ロビーに満ちた。その中心は、薔薇の花束を抱えた茶色の髪をした背の高い男。標的を捉えて、薫子の笑みに肉食動物の鋭さが混じる。
「そんじゃあ、お顔拝け‥‥」
 男の真正面に回りこんだ薫子は、咄嗟に上げそうになった声を口元を押さえる事で留めた。
 だがしかし、彼女は美形に免疫がある。右を見ても左を見ても選り取りみどりの美形が各種取り揃っている環境で任務につく彼女は、他の女性のように見惚れてしまう事はない。
 ぐらり揺らぎかけた女の意地を立て直して、薫子は男へと近づいた。
「あの」
 馴染みらしい女性達と会話をしていた男が彼女を見る。
 視線が重なる。
 時間が、止まる。
 互いを見合ったまま、動きを止めた2人に周囲がざわめく。
 先に動いたのは、薫子だった。
「その薔薇、1本、イクラっすか」

●見つめる目
 静まり返ったロビー。
 もぎり担当として受付に立った永遠さえもがその空気に戸惑って言葉を失う。
「‥‥何をやっているんだか」
 永遠にチケットを差し出して、ジャンガリアン・公星(w3f277)は、息を吐いた。あくまで、おかしな場面に行き会った他人として、薫子と男を中心に固まった一団に冷たい視線を投げ、困った様子を見せる奈々に話し掛ける。
「ここって、いつもあんな感じなのかな?」
「はい?」
 リアンの彼女役の小百合が、彼の言葉を補って小首を傾げた。
「皆さん、平安フィルの演奏を聴きに来ているのでしょう? でも、あの人達は‥‥」
 ああと奈々は苦笑を浮べる。
「テリィさんですね。演奏会に来られる方の中には、あの方に会う事を目的にしている人もいらっしゃるようですけれど」
 そんな奈々の表情に、リアンは目を細めた。
「あまり嬉しくはない、と?」
 はっとリアンを見た奈々は、すぐに目を伏せる。その仕草が雄弁に彼女の気持ちを語る。
「確かに、音楽を楽しみたい人にとっては、いい気はしないよね」
 露骨に顔を顰めて、リアンは奈々を覗き込む。
「良い音楽を共有したい‥‥そう思う人達にとって、音楽に入れない人達はノイズに等しい?」
 弱々しく振られた首。無理矢理に作った笑顔で、リアンを見返す。
「音を共有する事に多少のずれがあるのは仕方がありません。楽しみ方は人それぞれなんですから」
「私は、真剣に音を突き詰めている人達に失礼だと思いますわ」
 沢渡や柳瀬、楽団の全てが1つの音を作り出す為に意見を戦わせ、突き詰めている。彼らの努力を浮ついた気持ちで踏みにじるのは許せない。きっぱりと言い切った永遠に、奈々は微かに微笑む事で答えた。
「それでも仕方がないんですよ。‥‥係の者がお席へとご案内致します」
 営業の顔に戻った奈々は、何事も無かったように案内係へとリアンが渡したチケットの座席番号を示す。
「お二階の席にな‥‥」
 礼儀正しく案内役に徹しようと一礼した澪が、小百合の姿に僅かな動揺を見せた。
 気づかぬ振りで、リアンは小百合をエスコートし、澪に彼女と自分の荷物を預ける。
「クロークに預けて参ります」
 渡した荷物の下、小さな紙片が交換された。
「あの、リアンさん‥‥。澪さん、驚かれていたみたいですけれど、一体何に‥‥」
「ん? ‥‥サリーちゃんの可愛さに驚いたんじゃないかな?」
 リアンの瞳に過ぎった苦さを含んだ感情。彼はそれを表に出す事なく、渡された紙に書かれた内容を頭に入れる。
「‥‥ファンタズマは、皆の予想通りか」
 指定された席につき、リアンはゆったりと足を組む。
 澪からの情報では、演奏中に何かが起こる事は無さそうだ。
 グレゴールが「演奏」とそれを聴く「観客」を望んでいるのだとしたら。
「思惑が読めないのは、あの男だな」
 クロークに預けた荷物の引き換え札を渡して、澪が呟く。
「‥‥それは、鳳に任せるさ」
 それまでは演奏を楽しめばいい。
 グレゴールの思惑に乗るつもりはなかったけれど。

●祈り
「美穂さん、どうしましょう。私、緊張してしまって‥‥」
 胸元を押さえたマーリに、黒いシンプルなドレスを着込んだ美穂が励ますように肩を叩く。
「ここまで頑張ったのですもの。胸を張っていらっしゃい。ほら、お祖母さんも応援してくださっているわよ」
 こくんと頷いて、マーリは、今気がついたかのように美穂の手を取った。
「美穂さんの手‥‥やはり、演奏家の手ですね」
 スチール弦を押さえる指先は硬い。
 笑った美穂に釣られて、マーリも僅かに表情を崩す。
「美穂ちゃんだけじゃあないよ。皆、演奏家なんだからね。しっかり頑張っといで! 勿論、マリちゃんもだよ」
「はい。お‥‥祖母ちゃん」
「そう。皆で音を届けましょう。聴いてくれている人達と心を合わせて」
 水本、影山と連れ立ってやって来た杏は、そっと手を組んだ。祈るように、幸せそうに目を閉じる。
「皆の心を‥‥」
 それは、この楽団において珍しい事ではないらしい。
 指揮の沢渡も、柳瀬も、他の団員達も杏の祈りを静かに見守る。
 そんな団員達の中で、水本はヨネと視線を見交わした。

●強奪
 事件は、アンコールの後に起こった。
 音の余韻を指先で感じていた杏の上に落とされた白いヴェール。
 突如として現れた黒い羽根を持つ男。
 テレビで連日報道されている魔の者が持つという禍々しい姿に、観客席からも演奏者達の間からも悲鳴が上がった。
「プロポーズは終わっとる。花嫁は頂いていくで!」
 杏の体をウェディングドレスで包み、軽々と抱き上げると、鳳は予め御堂力(w3a038)が確保していた脱出口から飛び去って行く。その間、僅か数分。
 呆気に取られた人々の中、真っ青になった奈々が上げるか細い悲鳴に、薫子は2列後ろに座っているテリィと言う名の男を振り返った。
 薄く笑んだ容貌に焦りや驚きはない。
「うまく逃げたようだな」
「当たり前だ。俺が整えた手はずに狂いはない」
 裏方に徹していた力が、いつの間にかリアンの傍らへとやって来ていた。
「しかし‥‥鳳の奴、いつの間にあんなドレスを‥‥」
 ぬっと差し出された腕が1枚の紙を突きつける。
「なんだ?」
「ウェディングドレスの請求書だ」
 落ちた沈黙に怒りの色が混ざるのは、そのすぐ後であった。
 しかし、彼らもゆっくりとしてはいられなさそうだ。騒然とする人々の合間を縫うように永遠が近づいて来たのだ。
「天舞が! 柳瀬さんの様子が変なんです!」
COPYRIGHT © 2008-2024 桜紫苑MS. ALL RIGHTS RESERVED.

[mente]

作品の感想を投稿、閲覧する -> [reply]

Copyright © 2000- 2014 どらごにっくないと All Right Reserved.