どらごにっくないと

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【緋色の旋律】最終楽章

  • 2008-06-30T15:39:18
  • 桜紫苑MS
【オープニング】
「さて、と」
 攫って来た鳴海杏を下ろして、黒い翼をもった青年は腰に手を当てた。
 廃ビルの屋上から、月を見上げてほくそ笑む。
「こっからが大詰めやで」
「どーして、こんな所を選ぶんですかぁぁぁ」
 本日はごく普通にミニのメイド服を着込んだ女が、軋む扉を開けて疲れ果てたようにへたり込む。
 日々鍛えているとはいえ、やはりきつかったらしい。
 電気の通っていない廃ビルの、結構ある階段を上がって来る事は。
「姫さんを攫った魔王っちゅーのは、高いトコが好きなもんや」
「‥‥後から来る人の事を考えて下さいね」
 もう! と頬を膨らませて、女は差し入れと紙袋を青年へと渡す。
「お、おおきにな。そや、お前のご主人に折角作って貰ろうたんやから、姫さんに着せたって」
 ご機嫌に笑って、青年は杏を示す。
「きっとサイズもばっちりのはずや。そーゆートコ、ぬかりは無さそうやしな」
「はいはい」
 溜息をついて、女は腕を軽く縛られた杏の元へと近づく。
 相手がグレゴールである事は、もはや分かっていたが、何の気負いもなく自然な笑顔を見せる。
「乱暴でごめんなさい。どこか痛い所、ない?」
「私を攫って、どうするつもりですか?」
 2人が逢魔であると知ってか、僅かに声が硬い。
「ん〜? どうするか決めるんは俺らの魔皇次第やけどな」
 差し入れの洋菓子に食いつきながら、青年が答える。
「それよりも、貴女は自分のしていた事の意味を考える必要があると思いまーす」
「私のして来た事の意味?」
 女は苦笑して頷く。演奏会に紛れ込み、成行きを見守っていた彼女は気づいていた。
 杏は何の思惑もなく、ただ、自分と同じ音楽を愛する心を集めていたに過ぎない。それが何を意味するか、杏は考えもしなかったのだろう。
 彼女は、音楽を愛する心を神に捧げていただけ。讃美歌のように。
 彼女の行為が、人々から音楽を愛する心を奪っていたと知った時、彼女はどうなるのだろう。
 ふと感じた疑問に、青年はパウンドケーキを口に運ぶ手を止めた。
 会場に残るファンタズマと、もう1人、グレゴールではないかと目される者はどんな行動に出ているだろうか。まさかとは思うが、戦闘になっていないだろうか。
 様々な考えが青年の中に沸き起こる。
「‥‥ま、ウチが気を揉んでも仕方ないか。後は、なるようになるだけや」
 ぱんと手や服に落ちたケーキの屑を払って、彼は立ち上がった。
「着替えが済んだら、すまんけど、もう1回縛られてな。ウチらも、1度、魔皇ン所に戻らなあかんし」


 日渡奈々は、騒然とした観客を掻き分けるようにしてテリィと呼ばれる青年の元へと駆け寄った。
「お願いです! 杏さんを助けて下さい!」
「‥‥どうして?」
 優しげな笑みで、テリィは奈々を見下ろした。神々しいばかりに甘やかな笑顔は、この騒ぎの中にあって不自然な程。
「彼女には彼女の力がある。自力で何とか出来るよ?」
「ですが‥‥」
 ぽんと、奈々の頭に手を置いて、彼は続けた。
「それに君もいる。でも、そうだね‥‥、こちらも色々と利用させて貰ったし、少しは協力しようかな」
 ゆっくりと上げた視線の先、魔が現れた事も、仲間が攫われた事も関係ないと和やかに談笑している沢渡と柳瀬がいる。
 近づけば、これからどうするかの相談していると知れるが、とてもそうには見えない。普段、互いを嫌い合っているように見える2人だが、演奏会の後はいつもこうだ。
「貴方‥‥! 貴方は杏が攫われて、どうしてそんな涼しい顔をしていられるの!」
 動揺と怒りとに身を震わせて、朝霧美穂がテリィへと歩み寄る。
「貴方は、杏のファンなんでしょう!? それなのにどうして!」
 掴みかからんばかりの美穂の手を取り、そっと口元に近づけると、テリィは妖しく微笑んだ。
「杏くんは、知人でね。激励していただけ‥‥と言ったら、君は信じてくれるかな?」
 手を引き剥がそうとする美穂の腕を掴む手に力をこめる。ちらり、奈々を見て外を示す。
「犬を、貸してあげるよ。それで彼女を助けに行きたまえ」
 頷いて、奈々は踵を返した。
 杏の元に辿りつくには魔皇達を突破しなければならないだろう。そこまでの援護を用意してやれば十分だ。
 そして、テリィは、ここで得られるであろう最後の『心』を奪うべく、そっと囁いた。
「杏くんの事は心配しなくてもいい。だから、君は‥‥」

【本文】
●阻止
 美穂へと伸ばされた手を払って、御神楽永遠(w3a083)は真っ直ぐに男を見つめた。
 素早く周囲へ目を走らせると、彼女の逢魔、天舞が舞台上から聴衆を誘導している。客席から呼応するかに動き出した影は、逢坂薫子(w3d295)の逢魔、千代丸だろうか。
 退場を始めた一般人の動きと背後に庇った美穂の表情を窺って、永遠は口を開いた。
「このような事態が起こっているのに不謹慎でしょう?」
「そうかい?」
 非難を込めた彼女の言葉に、「薔薇の君」「テリィ」と呼ばれていた男はどこか楽しんでいる風に薄く笑む。永遠の眉が僅かに寄った。
「ええ、不謹慎です。杏さんが連れ去られて、心配している美穂さんにあんまりです」
「そう見えるなら、そうなのだろう。だが、君には関係のない事だね、お嬢さん」
 神々しいまでの笑みで永遠に応え、テリィは美穂へ促すように手を差し出す。
「駄目ーっ! いくらファンだって、やっていい事と悪い事がありますっ!」
 少女がその手に囓りついた一瞬の隙を逃す事なく、永遠は美穂の体を押した。よろめいた美穂を支え、手を引いて走り出したのは、山田ヨネ(w3b260)の逢魔、マーリだ。
 聴衆に紛れて行く2人の姿を確認し、永遠は半歩、足を下げた。
「どうぞ、このままに。しつこく言い寄る殿方は嫌われますわよ」
「そーゆー事。いくらグレゴールだからって、無理矢理は感心しないな」
 背後で退路を断つように立った薫子に、テリィの目が細められる。人波が出口へ向かって引いて行く中に取り残され、佇む者達の間に緊張が満ちた。

●追跡
「ねぇ! 私をどこへ連れていくの?」
 マーリの手を振り払い、美穂は苛立たしそうに叫んだ。
 聴衆は、美穂の叫びにも関心を示さずに外へと流れて行く。この後の寄り道先や、テレビドラマの話題を交わす彼らは、用が済んだと言わんばかりで、とても演奏会の後とは思えない。
「そう言うお前はどこへ行きたい」
 硝子戸に凭れ掛かっていた男から、突如声を掛けられて、美穂は小さく悲鳴を上げた。
「な‥‥何?」
「俺は、今から鳴海を捜しに行く」
 それが、先日から楽団で働いている夜霧澪(w3d021)だと知って、ほっと息が漏れる。安堵した途端、体から力が抜けた。
「どうした? 朝霧は、鳴海を捜したくはないのか」
「そんなはずない!」
 即座に返って来た答えに、澪は目元を和らげる。その場にへたり込みながらも、自分の意志だけははっきりと持っているようだ。
「では、いくか?」
 頷いた美穂を確認して、マーリは澪に彼女を委ねた。「頼みます」と、視線で告げたマーリは、澪が次に取った行動に呆気に取られる。
 澪は、力が抜け、座り込んだ美穂の体を軽々と持ち上げたのだ。
 いわゆるお姫様抱っこである。
「あっ‥‥あのっ!」
 慌てた美穂に不敵な笑みを閃かせて、澪はその場から消えた。取り残されたマーリの言葉が、ゆらゆらと動く人並みの中、虚しく響く。
「‥‥澪さん、美穂さんのスカートに気を付けて‥‥」
 スリットが大きいドレスの女性を、お姫様抱っこして疾走する事が危険であると澪が承知しているかどうか、定かではない。

●対峙
 会場内に一般人が居なくなった事を確認して、天舞は舞台から下りた。落ち着いた歩みで魔皇の元へと向かう。
「皆様は?」
「控え室に戻られています。何の混乱もなく、着替えておいでです」
 その口調に滲む悔しさ。
 沢渡や柳瀬だけではない。団員達からも、感情が奪われていたようだ。音楽に対する情熱、平安フィルに対する愛情が緩々と零れ落ちるように、いつの間にか。
「美穂様は無事に外へ」
 踊るように滑り込んで来た千代丸は、ふむと顎に手を当てる。
「無事と言うにはまだ早うございますな」
「‥‥どうして」
 低く尋ねた薫子に、悪戯っ子のように片目を瞑る。
「なぁに、ご心配なさいますな、魔嬢様。いざと言う時は、夜霧殿に責任を取って貰えば‥‥」
「澪さんが何か!?」
 心配そうに、勢い込んで尋ねるサリーの様子に、囲まれていたテリィはなるほどと髪を掻き上げた。
「君達は‥‥そうか」
 答えずに、永遠はテリィへと向き直る。その瞳をひたとテリィに当てて、尋ねた。
「貴方は、楽団をどうするつもりなの」
「どうにも。ここは杏の管轄だからね」
 腕を組み、薫子は挑発的な笑みを浮かべた。
「その杏さんの管轄に入り込んで、横から掠め取って行くわけ? グレってハゲタカみたい」
 薫子の言葉に、テリィは肩を竦めただけだった。
「君達は誤解しているようだが、私は私の仕事をしているだけだよ。彼女の領域は邪魔していない」
「領域?」
 薫子の眉が跳ねた。音楽に対して、純粋に取り組んでいたように見えた杏。その純粋さを神帝軍に利用されていたのではないのか。
「それは、どう言う意味ですか」
 永遠の声が掠れている。まさかという思いが、彼女の中に渦巻く。
「杏の領域は音楽に決まっているだろう? 演奏者が磨き上げた音が聴く者の心と溶け合って1つになる‥‥彼女は、その心は天に届くと信じていた」
 わかるかい?
 テリィの言葉の意味を悟って、永遠は薫子と顔を見合わせた。
「1つの演奏会が終われば次の演奏会、彼らの音楽への愛情は無尽蔵かと思える程だったよ」
 演奏会の度に、音楽への愛情が天‥‥神帝軍に捧げられていたというのか。
「それは‥‥つまり、彼らは音楽への愛情を無くしてしまったわけではないと?」
 目を見開いた薫子に、さてねと首を傾げてみせる。
「例えそうであっても、君達には関係ない事だと思うけど?」
 身構えた魔皇と逢魔に、太い声が掛かる。
「警察が来たぞ!」
 甘い菓子を団員やファンに振る舞っていた姿とは正反対の、金ボタンのスーツにサングラス、どこからどう見ても怖い職業の人な御堂力(w3a038)が、その巨体で非常口の1つを確保して叫んでいた。
「通報させた。大人しく捕まってくれたまえ、魔皇」
 言うが早いか、テリィの周囲に白い羽根が舞う。
「何、殺しはしない。安心おし」
 弾かれたような衝撃が、永遠達を襲った。
「皆さん、早く退避して下さいっ!」
 パルスマシンガンをテリィに向けた静夜の声に、永遠を庇っていた天舞が頷く。
「警察相手に戦うわけにはいかん! 急げ!」
「ホールで撃つなよ!」
 千代丸に腕を引かれ、脇を抜けていく薫子の声に分かっていると短く返して、力は消えて行く羽根越しに、グレゴールを見据えた。

●捜索
 急ブレーキをかけて目の前で止まった車に、澪は口元に笑みを浮かべた。
 車体には平安フィルの名、運転席はよく見知った青年の姿がある。
「お前は誘拐犯か?」
「ぬかせ」
 面白がるようなジャンガリアン・公星(w3f277)に短く吐き捨て、澪は美穂を後部座席へと投げ込んだ。
「馬鹿な事を言う暇があるなら、さっさと杏の居場所を探せ」
 ブレーキを解除しながら、リアンはやれやれと息をつく。
「大体の見当はついている。煙と何とかは高い所に行きたがるものだからな」
 お前、仮にも自分の逢魔に対して‥‥等と言う言葉を、美穂や奈々の手前飲み込んで、澪は前方を見つめる。
 窓から身を乗り出すようにして周囲を見ていた奈々が、あっと声を上げたのはその時であった。
 ポケットの中から携帯を取り出すと、奈々はそれを耳にあてた。
「杏!」
 携帯をひったくって、ヨネは送話口に叫んだ。
「無事かい!? 杏ちゃん! 変なコトはされていないかいっ!?」
「‥‥そんな事」
 していたら、どうなるか分かっているだろうな、鳳。
 穏やかな笑顔の下、物騒な事を考えているらしいリアンに溜息をついて、澪は耳を澄ました。奈々も美穂も、携帯から聞こえる声を少しでも聞き取ろうと耳を寄せている。
「え? なんだって? よく聞こえないよ」
 ヨネの声が車内に響き渡る。
「ビル? 屋上? 分かったよ、今すぐ助けてあげるからね。気をしっかり持つんだよッ」
 ヨネの中で、鳳は仲間の逢魔ではなく、悪の誘拐犯と化しているようだ。
 再び窓から顔を出した奈々は、追って来る影を確認した。携帯メールから情報を送っていた澪が、ちらり、影と奈々を見比べる。それに気付く事なく、奈々は目を上げて立ち並ぶビルの屋上に杏の気配を探していたのだった。

●覚醒
 最初に辿り着いたのは、水本一郎(w3b359)であった。次いで、ヨネを背負った澪。
「お? ほら、杏ちゃん。言うた通りやろ? お(ー)じ様が助けに来たで」
 やほーと手を振った鳳は、美穂と奈々を気遣いながら姿を見せた自分の魔皇の視線の鋭さに身を竦め、反射的に杏の背後へと隠れる。
「なんで、よりにもよってこんな所を選ぶんだいッ! ちっとは年寄りの事を考えないかい」
 お小言はヨネから降った。
 年寄り扱いをすると怒る癖に。それより何より、自分で上がったわけではない癖に‥‥とは、誰も、口が裂けても言わない。
 苦笑したまま、水本は1歩、杏へと近づいた。
「杏君、俺は君が音楽を心底愛しているのを知っている」
 大きな体を縮み込ませて背に隠れる鳳に戸惑っていた杏は、水本が言わんとしている事に首を傾げる。今更、彼が、自分の音楽に対する気持ちを確認する意図が分からなかった。
「だからこそ、君がしている事が間違っていると、俺は言う」
「間違っている?」
 勿論、と水本は鳳を睨め付けた。
「君を浚ったそいつの遣り方も、間違っている」
 無言のリアンから放たれる絶対零度の静かな怒りの圧力に怯んでいた鳳へ、更なるプレッシャーが加わる。
「ねぇ、杏ちゃん。あんたは、皆に音楽を楽しんで貰いたいと思っていたんだろ? でも、結果的にあんたは皆から音楽を愛する気持ちを奪ってるんだよ。知っていたかい?」
「そんな事はない!」
 激しく否定した杏は、美穂を見た。共に音楽を作って来た友に助けを求めるように。だが、美穂の言葉より早く、水本は首を振る。
「演奏会の後の聴衆‥‥。君や美穂君が平安フィルの演奏に感じたような魂の高揚を感じていると思うか? あれが、音楽を愛でる時間を共にした者の姿か」
 打たれたように、杏は顔を上げた。震えながら、額に手を当てる。
 飽きる事なく、会場の係員に促されるまで、聴き終わったばかりの演奏について語らう人々の輪。杏自身も覚えがある、そんな一時を過ごす聴衆を見なくなったような気がする。
 淡泊なほどにあっさりと家路につく人々の後ろ姿に、杏はふいに違和感を覚えた。今まで、考える事もなかった疑問が頭をもたげる。
 眉を顰めた杏の肩に、そっと、リアンは手を置いた。眼鏡の奥で穏やかな瞳が彼女を見つめる。
「大切なものは何か、よく考えてごらん? 失ってからじゃ、遅いんだから‥‥」
「やめて! 杏を惑わせないで!」
 考え込む杏の様子に悲鳴を上げ、駆け寄ろうとした奈々の手を掴んだヨネは、叱りつける強さで彼女の名を呼んだ。有無を言わせぬ口調に、顔を歪めた奈々が振り返る。
「奈々ちゃんや。アンタ達が何者かアタシにゃ関係ないよ。でも、アンタ達は好きだ。アンタ達に歪んだままでいて欲しくないんだよ。アンタ達も、平安フィルも、真っ直ぐに音楽楽しんで欲しい。それだけなんだよ」
 激しく首を打ち振ると、奈々はヨネの手を払った。
 恐慌を来した奈々の様子に息を付くと、水本は手にした楽器を口元に当てた。奏でるのは『浄夜』のワンフレーズ。
 のろのろと、杏が顔を上げた。
「君が、美穂君と共に音楽を目指した時の事を思い出してみたまえ」
 美穂を視線で招いた水本に、リアンも杏の背を押し、促す。
「駄目よ、杏! 何も考えないで!」
 その声に、黒い影が美穂と杏の間に割り入った。
「サーバントか!」
 低い威嚇音を発するそれから美穂を庇い、睨み合った水本の耳に、離れた場所から周囲を警戒していた影山の声が響く。
『アニキ! ファンタズマだ!』
 翼を持った白い姿が、上空から舞い降りた。厳かに、彼女は口を開く。
「ナナエル、杏様を早くテリエル様の元へ」
 頷くや否や、奈々は体勢を下げた犬型サーバントの上に杏を押し上げた。
「奈々? 何をっ!?」
「大丈夫よ、杏。私達の絆は、まだ途絶えていないのだから。ビズア、後をお願いします」
 ビズアと呼ばれたファンタズマに寄り添われも、杏を乗せたサーバントが屋上から跳ぶ。それ追った鳳の前へ、人の姿を脱ぎ捨てた奈々が大きく手を広げて立ちはだかる。
「止めて。もう、杏を追わないで」
 次々にビルを移り、離れて行く影を目で追った澪は、構えていた銃を下ろして舌打った。サーバントを撃つのは容易い。しかし、杏に当たる可能性がないとは言えない。引き金を絞る事を躊躇う内に、影は射程の範囲から外れていた。
「奈々! 杏をどうするつもりなの!?」
 美穂の叫びを冷たく見下ろして、奈々は感情の一切を捨てた声で告げた。
「ご心配なく。私が杏に危害を加えるなど、ありえはしない。貴方達も、彼女をこれ以上苦しめないで」

●事後処理
 杏と奈々の退団願いが郵送されて来たのは、その1週間後。
「何か、釈然としないわね」
 潜入していた者達の後処理を受け持ち、最後まで平安フィルに残っていた永遠は、ほぅと息を付いた。あの後、何事も無かったように、平安フィルは次の公演に向けて準備を始めた。沢渡と柳瀬の間にあった諍いは沈静化し、永遠達と協力して杏の行方を捜していた美穂も、表面上は平静だ。
「美穂さんは神帝軍に疑いを持ったみたいだけど、あちらは一応、神様の使いだし」
 苦い顔で、薫子は頷いた。しばし考え込むと、独り言のように呟く。
「杏ちゃんが音楽を愛する心、あのテリィってグレが愛憎、色んな感情。テリィが次の公演に現れなきゃ、平安フィルから神帝軍の影は消えた事になるけど‥‥」
「ほら、サービスだ」
 シュバルツバルトの店内は、いつも通りに若い女性客で賑わっている。その片隅、違和感なく溶け込んでいる2人へ、違和感ばりばりに出来たばかりのケーキを運んで来た強面の男が、小声で会話へと加わった。
「利用させて貰った礼ぐらいしてもいいなと、奴が言っていた」
 仲間達の退路を守った力は、テリィと呼ばれていた男の声を聞いたのだ。突入して来た警官隊に阻まれ、その真意を確認する事は出来なかったが。
「礼? ファンタズマを遣わして杏さんを逃がす事?」
「いや、奴は‥‥」
 薫子は、キャラメルの掛かったケーキにスプーンを入れる手を止めて、呟いた。
 開演前に、彼女はテリィと言葉を交わした。あの男の言う事が、額面通りの意味だとは思えない。
「‥‥多分、違う。なんとなく、そんな気がする」
 なにがどう違うのか、説明は出来なかったけれど。
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この小説は株式会社テラネッツが運営する『WT03アクスディア 〜神魔戦記〜/流伝の泉』で作成されたものです。
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