どらごにっくないと

カウンターカウンターカウンター

正義のミカタ

  • 2008-06-30T15:50:03
  • 桜紫苑MS
【オープニング】
 朝の混雑も一段落つき、順番待ちの客も2人を残すばかり。
 ほっと息を漏らしつつ、行員は呼び出しのボタンを押した。
「‥‥番の番号札をお持ちのお客様、3番の窓口まで‥‥」
 繰り返されるアナウンスに、しばし手持ちの札を眺めていた初老の男が、たっぷり数十秒の後に立ち上がる。
「あ、はいはい。私でした」
 どこかテンポのずれた男だ。
 募金箱を抱えた男がカウンターへ向かうのを、読んでいた雑誌から目を上げて見送って、イレーネは思った。どこかの教会の神父であろうか。胸元に鈍い色を放つロザリオが揺れる。
−‥‥気が合うかもしれない。
 穏やかな笑顔が印象的な男だ。後で声を掛けてみようかなどとちらりと考えたその瞬間‥‥
「動くな! 動くとこの男の命は無いぞ!」
 カウンターの行員に募金箱を差し出した神父の首にナイフを突きつけて、頭からストッキングを被った男がヒステリックな声をあげた。
−‥‥今時ストッキングか‥‥
 一瞬にして恐怖が支配した銀行の中、内心呟くイレーネ。
「あ。‥‥皆さんの善意が」
 手から離れた募金箱が床に落ち、小銭が散らばって行く様を見た神父の口から、そんな言葉が漏れた。



「刑事のグレゴール?」
 乾いた布巾で丁寧に拭きあげたコーヒーカップを棚に戻し、月見里葵は魔皇達に頷いた。
「はい。少しの悪も許せない熱血刑事です」
 カップがたてる無機質な音がやけに響く。
「‥‥それはそれでいいんじゃないのか?」
 葵は頬に手を当てた。問うた魔皇の言いたい事は分かる。分かるのだが、流伝の泉に届いた逢魔の嘆きも見逃せない。
「伝の話によると、彼は歩道に停めた自転車の持ち主を通行の妨げだと逮捕したり」
 確かに通行人の迷惑には違いない。
 だが、それが犯罪になるのだろうか。
「赤信号で横断歩道を渡り切れないおばあさんに駆け寄った青年を信号無視で逮捕したり」
 それは犯罪じゃないだろう。
 一斉に、手の振りだけで突っ込んだ魔皇達に、葵は複雑な溜息を吐く。
「ともかく、正義感に溢れる熱血刑事なんです」
「‥‥小さな悪じゃなくて、巨悪を追え」
 そう言いたくなるのも当然だ。
「厳しい取り締まりに、市民は‥‥」
 言いかけた葵の言葉がふいに途切れた。
 その目は、テレビの画面に向けられている。
 葵の視線を追った魔皇達の動きも、止まった。
「あっ! 今、人質の姿が見えました! 男性と、若い女性のようです!!」
 そこに、見慣れた姿を見つけて。



 彼は薄く笑んだ。
 神帝軍の支配以来、犯罪件数はめっきりと減った。人質を取って立て籠もった銀行強盗というのは久々に血を熱く騒がせる事件だ。
 ぐっと拳を握り締める。
「何を感動しているか知らんが、さっさと現場へ行けよ」
 上司の言葉に、彼は瞳を輝かせて振り返った。
「はいっ! いってきます!! ボス!!」
「‥‥誰がボスだ、誰が」
 上司が、いつかドラマで見た俳優の顔で彼に言う。
『全てはお前にかかっている。頼んだぞ』
 勿論、幻聴である。
「分かりました、ボス! ヤマさんの教え通り、俺は‥‥俺は‥‥悪を決して許しませんッ!」



 パトカーと報道陣が取り巻く銀行を物陰から窺い見て、彼らは顔を見合わせた。
 市民を抑圧するグレゴールは除かねばならないが、銀行強盗も放ってはおけない。
 何より、人質になっているレプリカントを助けておかないと、後で何を言われるか分かったものではない。
「出入り口は中から封鎖されているようだな。人質はイレーネと男性客と行員達か」
 警察は説得態勢に入ったようだ。
 しかし、正義感に溢れるグレゴールが説得というまだるっこしい方法に納得するかどうか。グレゴールの動き次第では、どう転がるか分からない。
「テレビカメラも厄介だ」
 自分達の姿を記録されるのはまずい。
 彼らは、騒然とした現場を凝視して考え込んだ。



「で、どうするのよ?」
 苛々と髪を掻き上げて問うティアイエルに、テリエルは会堂の長椅子に腰掛けた男を見た。
 何を考えているのか、彼はテレビ画面を見つめて沈黙したままだ。
「パパ? 助けなくていいの?」
「‥‥奴が動いているはずだ」
 膝に手を置いたアリアの髪を撫でて、男は重く答えた。
「奴? ああ、刑事ドラマを見過ぎのアイツ、ね」
「あんなでも一応は本職だ‥‥し‥‥」
 妹へと肩を竦めたテリィは、画面に映る人影に−彼にしては珍しく−絶句した。
『神父さまぁ』
 そこに映っていたのは、止める警官の腕を振り払う清楚なシスター。
 茶の間に感動を呼ぶであろう健気な姿に、レポーターの女性は、すかさずマイクを差し出した。
「人質の神父様の身内の方ですか? 捕らわれの神父様に励ましの言葉を!」
「神父さまぁ!」
 まさにお涙頂戴のシチュエーションに、カメラというカメラがマイクを掴んだシスターに向く。
「夕方のミサの時間までには戻って来てくださいねーっ!」
 ‥‥考えようによっては、無事を祈る言葉に聞こえなくもなかった。


【本文】
●人質の現状
 声を出すのも憚られる。心臓が脈打つ音さえもが響き渡ってしまいそうだ。
 カウンターの上に突き立てられたナイフ。大きなガラスのはめ殺し窓の前には、待合いの椅子で築かれたバリケード。行員の1人を盾にとり、下げたブラインドの隙間から外の様子を窺う犯人の姿に、人質達は身を竦ませた。
 犯人を刺激せず、大人しく解放される時をじっと待つ。それが、今の彼らに出来る唯一の事だ。
「□肉□食。この□に入る漢字は何?」
 そんな緊張に満ちた沈黙の中、状況を理解しているのか甚だ疑わしい声が響いた。
 縛られていないのをいい事に、雑誌を広げていた女はクロスワードパズルを指さす。尋ねられた男は、はてと小首を傾げた。
−‥‥弱肉強食だろ‥‥
 それまで硬直していた人質達が、それぞれに心中突っ込んだ。勢いで体が僅かに動く。
「んー? 焼肉定食ですかねぇ?」
 小学生の回答じゃあるまいし。
 人質となった者達の体が更に揺れた。
「ああ、そうか。それで横の□の最後に子がつくんだ」
「その□には「餃」が入るんですね」
 あはははと楽しげに笑った男に、白けた空気が流れる。
「てめぇら、何コソコソしてやがる!」
 突きつけられた銃口に怯んだ人質達の体が、再び硬直した。
「そういえば、そろそろお昼ですよねぇ」
「‥‥おい」
「天丼。天丼が食べたい」
「私は親子丼ですかね」
 威嚇する犯人の言葉は聞こえているのかいないのか。女はポケットから携帯を取り出すと、ぽちりとボタンを押した。
「何をしているッ」
『‥‥月茶寮です』
 銃口を手でどかし、女は平然と送話口に向かって話し出す。
「天丼と親子丼。‥‥あんた達は?」
 哀れな人質達は、首を横に振るのが精一杯だ。
「貴様ら、自分の立場が分かっているのか」
「あんたは?」
 女は尋ねた。
「‥‥カツ丼」

●お出かけ前は
 受話器を置いた月見里葵の言葉に、速水連夜(w3a635)の手からメモを取っていたペンが転げ落ちる。
「本人‥‥なのか」
 尋ねた声が、彼らしくもなく動揺に満ちている事に誰も突っ込んだりしない。
「本人です」
 付き合いの長い、彼女の魔皇が言うのだ。間違いはなかろう。
「彼女らしいと言うべきか‥‥」
 スツールに腰を下ろしていた女から聞こえて来たジャンガリアン・公星(w3f277)の声に、高澄凌(w3c245)の手にしたコーヒーカップが大きな音を立てる。艶麗な美女から男の声が発せられれば、例え非日常に慣れている魔皇であろうとも驚くだろう。
「まぁ、丁度よろしいですわね」
 葵に呼ばれて顔を出した白鳳院昴(w3a531)が、心底嬉しそうに笑った。何が「丁度よい」のか。ぱたぱたとスリッパの音を響かせて自室へと戻っていく昴に、他の者達は顔を見合わせた。微笑んで佇む逢魔、エリゼリュートの達観した様子も、彼らの懸念を増大させる。
「さささ、これをお持ちになって」
 戻って来た昴の手には、漆塗りの盆。
 その上に、湯気をたてる丼がいくつか乗っていた。もしやと覗き込んだ枳県(w3g986)は、感嘆とも驚嘆ともつかぬ声を上げた。
「フルコース‥‥ですか」
「ええ。天丼カツ丼親子丼に他人丼イクラ丼、よりどりみどりです」
 幾分誇らしげに、昴は胸を張る。走って来たのか、彼女の髪が僅かに乱れていた。
「昴様‥‥」
 エリゼリュートが控えめに主へと声を掛けた。困惑した表情を浮かべた彼女に、仲間達の期待の籠もった視線が集まる。
「お店ではないのですから、そんなに色々とお作りになる必要はなかったのではありませんか?」
「あら? そうでしょうか? 色んな種類を楽しめてよろしいではありませんか」
 論点がずれていると思ったのは、連夜だけであろうか。いや、違う。背けられた仲間達の表情が、彼らも連夜と同じである事を告げていた。
「しかし、イレーネ嬢もこんな普通の犯罪に巻き込まれるとはお気の毒に」
 話に加わらず、何やらしたためていた影月に嫌な予感を覚えて、連夜は自分の逢魔の様子を窺った。彼が操るのは、普通のペン先ではない。
 かと言って、丸ペンやGペンでもない。
 スピードボールC−2。
 西洋習字、カリグラフィー用のペン先である。
 連夜の心に、更に悪い予感が過ぎる。
「うーむ。配色が今イチですかな」
「‥‥何をしているんだ? 影月」
 意外な事を聞かれたと、影月は魔皇を振り返った。ちらりと見せたカードには、絶妙で微妙な色合いで描かれたリボンの中に踊る文字。
「予告状でございます」
 嬉々として昴が準備した岡持ちの中へとカードを滑り込ませて、影月は満足そうに頷く。
「これで準備は万全でございます」
「だから、一体何の予告状だ」
 好奇心にかられ、凌は中のカードを取り出した。装飾が施された文字を、1字1字丁寧に読み上げる。
「なになに? 『人質を頂きに参上致します。怪盗シャドウムーン』? シャドウムーンって何だ?」
 連夜の手に、綺麗に畳まれたタキシードとマントとシルクハットを乗せて、影月はぐっと親指を立てた。
「‥‥頑張れ、シャドウムーン」
 ぽむと連夜の肩に置かれる凌の手。
 意味を為さない言葉が、連夜の口から漏れた。
「それはそうと、伊織さんの姿が消えていますが」
 片隅の騒動は敢えて見ずに、葵は魔皇達に問いかけた。
 依頼の説明を始めた時には確かにいた葛城伊織(w3b290)が逢魔の久遠と共に居なくなっているのだ。
 それならと、ヤスノリ・ミドリカワ(w3f660)の隣でちょこんと座っていたメグミが小さく手を挙げた。
「先行して侵入ルートを確保するとか」
 ね? と同意を求める相手は、主であり、夫であるヤスノリだ。
 メグミが手ずから入れた紅茶の馥郁たる薫りを味わいつつ、ヤスノリは頷いた。
「ルートさえ確保出来れば、幾らでも手は打てる」
「でもヤスノリさま。伊織さんと久遠さん、神主さんと巫女さんの格好をして出て行きましたけれど?」
 ぴくりと、ヤスノリの眉が跳ねた。
「‥‥聞いていないぞ」
 潜入ルートを確保するのに、何故に神主と巫女か。
「ひらひらと裾が邪魔だ。機能的ではない」
「ヤスノリさま?」
 下から己を覗き込むメグミは、ヘッドレスト付きフリル付きのメイド服である。
「‥‥メグミはいいんだ」
 どういう理屈か分からないが、ヤスノリの中で自分が特別である事を再認識して、メグミは瞳を潤ませた。
「ヤスノリさま‥‥」
 見つめ合う熱々新婚夫婦。
 他人の目など、既に彼らの意識の中にはない。そのまま抱擁を交わすべく接近する2人に、わざとらしい咳払いが浴びせられた。
「そういう事は後になさって下さいませね?」
 我に返り、慌てて離れるヤスノリとメグミへと笑いかける葵の目は笑ってはいなかった。
「全く、何を考えて神主の格好なんか」
 呟きの断片から、その怒りは彼らに向かっているわけではないと知る。
「と‥‥とりあえず、伊織さんに連絡を入れましょうか」
 鬼気迫る葵に気圧されつつ、メグミは愛する魔皇にお伺いを立てた。
 矛先が別の所へ向いてくれれば面倒は少ない。即座に判断して、ヤスノリは彼女の行動に了承を与えたのであった。
「‥‥え〜とぉ」
 目の前で展開されていく事態に対応し切れず、昴は丼を持ったままで立ち尽くしていた。冷めないようにと掛けたフィルムに、湯気が作った水滴がつく。
「昴ちゃんは確か蛇縛呪が使えたよね? ちょっと危険だけど、銀行の中に入って貰えるかな?」
 なるべく目立たぬように目立たぬようにと、それまで極力発言を抑えて来たリアンが、そんな昴を見かねたように声を掛けた。
 紅のルージュに縁取られたその唇は妖艶で、男である事を知らぬ者が見れば女性であると信じ込んでしまいそうだ。
 だが、そんなリアンの艶姿も昴の前では特殊効果を発する事はない。
「ええ、それは構いませんが」
 丼をエリゼリュートに預け、昴はリアンの手を両の手で包み込んだ。
「今度、エリゼリュートと一緒にドレスを着てみませんか?」
 エリゼリュートに清楚で淡い色のドレス、リアンには深い色合いのセクシーなドレスを着せてみたい。ピアノの側なんかに並んでみると、もっともっと面白いかもしれない。
「撮った写真は、セピアに加工処理すると素敵だと思いませんかぁ?」
「‥‥いや、悪いけど、そういう趣味はないから」
「‥‥‥‥真実味の薄い言葉じゃのう」
 ずずっと熱い緑茶を啜りながら、北条虎獅狼(w3b320)は他人事のように呟いた。
 実際、他人事である。
「主様」
 窘める踏子に、虎獅狼はことりと湯飲みをカウンターへ戻す。
「踏子さんよ」
 若者を導く年長者の落ち着き。虎獅狼は湯呑みから立ち上る湯気を見つめた。
「もしも、今回の事件をそのグレゴールが解決したならば、それは神帝軍にとって良い宣伝となる。市民を守る神帝軍、悪を許さぬ正義の味方‥‥とな」
 踏子は神妙に聞いている。 
 彼女は感動していた。
 半ば諦めかけていた魔皇が、まともでいて的確な論理を説いている! と。
「此度の事、グレゴールよりも先に、我らが解決せねばならん。尚且つ神帝軍の名を貶める事が出来れば言う事はない。さすれば、彼奴らに対する幻想は破られ、人々は真実に目覚めるのだ」
「主様‥‥っ!」
 感極まって、踏子は目尻に涙を浮べた。
「そう、真実は海のように常に我らの側にあるもの。どれほど虐げられても変わらず我らを包み込むもの。りたーんとぅざしぃ! 全ての人々よ! 海へ還るのじゃ!」
 しかし、彼女の喜びは泡沫の夢であったようだ。
 がくりと肩を落とした踏子の心中は如何ほどであろうか。
「‥‥どうでもいいのですが、皆様、そろそろ動いて頂けません?」
 静かに怒りを爆発させた葵に、翠月茶寮は沈黙に包まれた。
 その頃、いくつかの建物経由して、警察とマスコミが取り囲む建物の隣りへと忍び込んでいた伊織はふいに動きを止めた。
 建物の中に人の姿はない。銀行に強盗が立てこもったと分かった時点で、皆、退避したようだ。入り口の扉は、いつでも警察が利用出来るようにと開け放たれたままだ。
「伊織様?」
 尋ねた久遠の目の前で、伊織の顔が見る見る青ざめる。
「お‥‥お守りが‥‥」
 首から提げていた紐が切れたようだ。彼が拾い上げたお守りに、久遠は見覚えがあった。確か、イレーネが有無を言わさずに切り落とした葵の髪が入っていたはずだ。
「もしや、イレーネの身に何か!?」
 小袋を握りしめて、精悍な顔を歪ませた伊織に、久遠は首を傾げてみせる。
「と言うよりも、葵様の堪忍袋の緒が切れたのかも‥‥」
 ざぁと伊織の顔から血の気がひいた。先ほどの比などではない。
 体の向きを変えた伊織の襟首を掴んで、久遠はくすくすと小さく笑った。
「冗談ですよ。さ、参りましょう」

●修羅場
「さて」
 準備は万端整った。
 仲間達も、皆、それぞれの位置についた。後は、舞台の幕を上げるだけだ。
「こっちはOKだ。‥‥派手にいけよ」
 集まった報道陣に紛れ込んだ凌は、視線で志穂と示しあう。
 志穂は、いつものアオザイではなく、清潔感を感じさせるスーツ姿だ。
「似合ってるな、志穂」
 ビデオカメラのファインダーから目を離した魔皇の素直な賞賛に、彼女は目元を染めた。だが、嬉しさを己が裡に閉じ込めて、彼女は努めて淡々とマイクを手に語る。
「そびえ立つ城に、今しも危機に飛び込まんとする乙女が1人‥‥」
「志穂、志穂! もっと普通に喋っていいから!」
 考える素振りを見せると、志穂は再びマイクを口元に当てる。
「‥‥出前が来ました」
 凌は苦笑を漏らした。
 実況中継の程度が掴めず、どうしたものかと首を傾げた志穂の目に、岡持ちを提げて警察が引いた非常線へと近づく踏子の姿が映る。彼女の行く手を阻んだ警察と何やら揉めているようだ。
「ああっ! 今、女性の手が振り払われました!」
 硬直した状況に、警察も苛々としているのであろう。踏子との遣り取りは次第に激しさを増していく。
 その騒ぎに、中の犯人も気づいた。何事かを叫んだようだが、凌達の所までは聞えない。
 数人の警官に引き離された踏子に、野次馬の中から飛び出した女性が駆け寄ると、やがて2人は道を開けた警官達の間を抜けて、銀行の入り口へと姿を消した。
「予定通りだな」
 乱暴に停まった1台の車に、満足そうな笑みを浮かべて凌はカメラを向けた。
「ちっ。何をやってやがる。民間人を中に入れるなんてどういうつもりだ!」
 中から出て来た背広姿の男は、派手に舌打ちをしつつ彼の隣りをすり抜けたその時‥‥。
「何よ! 今、何て言ったのよ!」
「なんだってんだよ!いきなりっ!」
 きぃと少女は迷彩ズボンの上にジャングルブーツを履いた青年に向かって腕を振り上げた。その手に持ったバッグが、背広の男の顔面を直撃する。
 顔を押さえた男をまるっきり無視して、少女はぶんぶんと頭を振った。
「ひどい! 信じられない! 私以外の女の人なんて、見ないでよ!」
「ちょ‥‥ちょっと、お嬢さん、落ち着くんだ!」
 興奮した少女を宥めようとした手は、チンピラ風の男によって阻まれた。
「おい、なんだよ! 人の女に手ェだしてんじゃねぇよ!」
 いかにも柄が悪そうな青年に、男は内ポケットから手帳を取り出して見せる。
 紛れも無く、それは警察手帳。
 そして、情報通りの容貌。
 この男が刑事のグレゴールに違いない。
 チンピラを装ったヤスノリの口元が上がる。
「なんだよ! 警察だからって何だって言うんだ!」
「おい、こら‥‥っ」
 つるりと口が滑ったかのように、ヤスノリは続けた。
「神様と警察の力を借りて威張んじゃねぇ! 刑事でもグレゴールでもない、てめぇみたいな中途半端な野郎はデカゴールで十分だ!」
 男の‥‥デカゴールと嘲りを込めて呼ばれたグレゴールの顔色が変わる。
「お前、どうして俺がグレゴールと知っている?」
 警察手帳を見せるまで、公的身分も知らなかったはずの青年が、何故自分の事を知っているのだ?
 少女、メグミの手を咄嗟に掴んだグレゴールに、ヤスノリは内心、不敵な笑みを漏らした。
「お前達、魔皇かっ!」
 一般市民を威嚇する刑事の図。期待以上のシーンが撮れて、凌もほくそえむ。音声は消して、志穂のナレーションを入れればいい。
 次は、奴をヤスノリ達とこの場から引き離さなければならない。そろそろ、潜入した者達からの連絡も入るはずだ。
 凌は、県を目で促した。僅かに首を傾ける事でそれに応えて、県はしぐさに囁く。
「しぐささん、奴の目を僕に引きつけて下さい」
 しかし、魔皇に詰め寄るグレゴールの目を彼に向ける術など、すぐに出てくるはずもなく、焦ってしぐさは金切り声をあげた。
「きゃああちかんよちかん〜」
「え‥‥ちょっと‥‥」
 これはさすがに予想外だ。
「何っ!? 痴漢だとっ!?」
 グレゴールの反応は思った通り。小さな悪事も見逃せないグレゴールは、目の前の魔皇の存在も忘れて県へと向かって来た。仕方なく、県は走り出す。
「いくらなんでも、それはないでしょ、しぐささん!」
 ちらりと走らせた視線の中、しぐさは申し訳無さそうに手を合わせている。結果的にグレゴールは引きつけたわけだから思惑は当たったのだが、いかんせんこれは‥‥。
 もの凄い形相で追いかけてくるグレゴールを引き離さない程度に速度を調整しつつ、県は黄昏れて空を見上げた。
「待てっ痴漢!」
「違います〜っっ」
 どんどんと人ごみと包囲網から離れて行く県とグレゴールを眺めながら、凌はぽりと頭を掻いた。
「ま、こっちとしてはやりやすくなったけど」
「咄嗟に思いつかなかったんです‥‥」
 自分の大切な魔皇に何て事を。
 ずんと落ち込んだしぐさを慰めて、志穂は凌を見上げた。
「県は尊い犠牲という事で」
「あああっ!」
 気の毒そうに志穂はしぐさの背を撫でる。彼女には、上空から全体の状況を把握するという役目が残っているのだ。
「大丈夫。彼も魔皇だもの。ちょっとやそっとでは死なないわ」
 それがしぐさにとって慰めとなったかどうかは謎である。

●潜入
 それは、屋上に近い階の窓だった。
 警官の突入を防ぐ為、全ての出入り口を閉じさせた犯人の目が届かなかったのか。1つだけクレセント錠が開いていた高窓へと、伊織は屋上から身を躍らせた。
 隣りの建物の壁を蹴ると、高窓の桟へと手をかける。
「いいぞ!」
 開いた窓から侵入し、監視カメラの有無を確認して、伊織は手に持つロープを階段の手すりへと結んだ。
 そのロープを伝い、仲間達が次々に窓から顔を覗かせる。
「よし。今、リアン達が中へ入った。急ぐぞ」
 最後にロープを伝った昴に手を差し出して支えると、彼は携帯から聞える久遠の声を仲間達に伝えて、音も無く階段を駆け下りた。
 次は、館内で生きたままかもしれないカメラを切る必要がある。
 久遠の報告では、グレゴールは県が引きつけているようだ。だが、リアン達が食事を届けて稼いだ時間は精々が10数分。
 その間に、監視カメラを切り、人質を救出せねばならない。
 彼らは、館内を静かに駆け抜けた。

●彼の名は‥‥
 口元だけストッキングを捲り上げて、男はカツ丼を掻き込み始めた。
 それを横目で窺い見て、リアンは天丼をイレーネへと手渡す。
 滅多に表情を変えないイレーネが、彼の姿に目を見開いたのを無視して、そっとその手の中にカードを押し込んだ。
「この親子丼はどなた?」
 高く作った声で尋ねると、はいはいとのんびりとした声が返る。
 神父の姿をした上品な面立ちの男は、丼を渡されておやと首を傾げた。
「どうかなさいまして?」
「いえ‥‥大きい手だなぁと‥‥」
 背に冷たい汗が流れる。ここでばれたら全てが水の泡だ。
 リアンは口元に手を当て、笑って誤魔化す。
 幸いな事に、親子丼に気を取られた神父はそれ以上追及する事もなかった。
 大人しく人質と同じ場所に座り、時計見つめて仲間からの合図を待っていたリアンの耳にドアノブが微かに回る音が届いたのは、犯人の丼が空になる頃であった。
―イレーネ!
 目で、彼はイレーネに合図を送る。
 レプリカントの娘は、今気づいたとばかりに声を上げた。
「あれえ? これ、何ぃ? 人質を頂きに参上いたします? 怪盗シャドウムーン?」
―今だ、鳳!
 扉の向こう、伊織はインカムに向かってその瞬間を知らせる。
「よぉっしゃあ!」
 上げた雄叫びは、だがしかし外に漏れないように小声であった。
 トイレの中で、鳳はその真の姿を解放する。ここで犯人に気づかれては元も子もない。
「そぉれ、行けやーっ!!」
 気合い十分に、彼はその手から闇を作り出した。威勢良い掛け声も、やっぱり小声である。だが、依頼に出た分、罰ゲームで女装した魔皇の「女性としての」立ち居振舞いを予定以上に楽しめたし、写真もばっちり撮ったしで、彼は上機嫌であった。
 イレーネがカードを読み上げてから数十秒。
 室内は、突然に闇に閉ざされた。
「おや? これは‥‥」
「動いちゃいけない!」
 悲鳴を上げた人質達を落ち着けようと、リアンは叫んだ。声を作る暇などありはしない。
 慌てふためいた犯人が撃ち放った銃が、破裂音を響かせる。
 銃声は1発だけであった。
 昴の蛇縛呪が犯人の動きを封じたのだ。
「さあ、諸君。こちらへ!」
 闇が途切れて視界に光が満ちる。
「行こう」
 マントに残る闇を追いかけて、彼らは駆け出した。
 犯人の横を抜けても、彼は身動き1つしない。
 無我夢中で駆けた人質達は、黒ずくめの人物に導かれて建物と建物の合間から、大騒ぎになっている通りが見える路地へと出た。
 誰からともなく、安堵の息が漏れる。
―後は、警察なりマスコミなりが保護するだろう。
 肩で息をする人質達の様子を窺い、連‥‥怪盗シャドウムーンは、そう判断すると地面を蹴った。
「獲物は盗み出した」
 ブロック塀の上にすくっと立ち、マントを翻す。
「さあ、君達は行くがいい。次からは、間抜けな刑事に予告を出すと伝えておいてくれ」
 高らかな笑い声と共に、彼は細いプロック塀の上を駆け去っていく。路地裏を縄張りとする猫も顔負けなバランスとスピードであった。
「怪盗シャドウムーン‥‥」
 指を組んで、その残像を見送るイレーネの肩を、神父が優しく叩く。
「せめて、薔薇の花を残していかなきゃ‥‥」
「まだまだのようですね」
 佇む2人の会話を聞かぬフリで、人質達は我先と通りに向かって走り出す。
 解放された彼らに殺到したマスコミは、突如として現れ、人質を救った怪盗の存在を知った。シャドウムーンは一躍時の人となったが、やがて波が引いていくように、事件も風化し、彼の噂は語られなくなったのだった。
 ただ、彼が残した予告状だけが、長く銀行の壁に飾られていたという。

●説得
 人質は彼の手から離れた。
 静かになった行内が、彼の不安を煽る。手に持つ改造拳銃とカウンターに突き立てたままのナイフとが、彼に残された武器だ。注意深くカウンターに近づくと、彼はナイフを引き抜いた。
「お若いの‥‥」
 真後ろから掛けられた声に、彼は奇声を上げて抜いたナイフを振りかざす。しかし、上げた手は下ろす前にがっしりとした手に掴まれて相手を傷つける事は適わない。
「てめ‥‥っ!」
「海は好きかね、お若いの」
 いきなり問われて、彼の意識が逸れる。時間にすれば数秒であったが、それが相手に反撃のチャンスを与える致命的な隙である事は、素人の彼にも分かった。
 だが、男は彼に手を掴まれたまま動こうとはしなかった。
「海はよい。時に全てを包み込み、時に人の無力さをこれでもかと突きつけてくる。海はよいぞ」
「何を言っ‥‥」
 空いた手を、男は彼の肩に乗せた。万力のようにぎりぎりと締められて彼はストッキングの繊維越しに苦鳴を漏らす。
 だがしかし、男には敵意が全くない。
「海が好きな者は、皆、友じゃ。どうじゃ、おぬしも海に全てを委ねてはみぬか」
 それが余計に彼の恐怖を煽った。
「死にたいのかよっ!」
 ナイフを捨て、彼は銃を構える。
 引鉄にかけた指に力を込める前に、彼の手は男の手にがしりと掴まれた。
「よいか、お若いの。こんな大それた事をしでかす度胸があるなら、人生をやり直す事も可能じゃぞ」
 その通りと、扉の影から声が響く。
「このまま、ここに立て篭もるなら、カミサマとやらの罰が下るだけだぞ。これは脅しじゃない。この先、お前を待っているものだ。そんな得体の知れない罰よりも、法の裁きを受けた方がよくないか?」
 がくがくと震えて座り込んだ男を一瞥し、虎獅狼は伊織が待つ扉へと歩み寄った。
 もはや語る言葉は必要ない。
 犯人は、自分が犯した罪を償う事になろう。
「お疲れサン」
 差し出された拳に拳を当て、虎獅狼はにやりと笑った。

●そして幕はおりた
「さっきは済まなかったな、メグミ」
 演技とはいえ、彼女を不安にしてしまった。
 いいえと首を振ると、メグミは恥ずかしそうに俯く。
「私こそ、ヤスノリ様を罵倒してしまって‥‥」
 ヤスノリは、そんな彼女の胸元に小さなブローチを飾る。息を呑み、次の瞬間、嬉しそうに顔を輝かせたメグミの耳元に何事かを囁けば、彼女の耳まで赤く染まる。
「もしもし」
 仲の良い2人に中てられ、肩を竦めたリアンは、突然に掛けられた声に飛び上がった。
「な‥‥にかご用でしょうか?」
 神父は声を潜めて、そっと彼に耳打ちする。
「ずれてますよ」
 何が?
 一瞬、判断が付かなかったリアンは、やがてそれに思い当たった。
「〜〜〜〜っっっ!!!!」
 慌てて、彼は胸元を押さえて衣服を整える事が出来る場所を探す。さすがに、衆人環視の中、実は男でしたとばれたくはない。そんな彼に、神父は慈しみの籠もった眼差しで微笑むばかりだ。
「私達、また会える?」
 おいと呟いたのは凌。
 撮った映像を自分のパソコン、ネミッサに繋いで確認すべく、彼もリアンと同じように落ち着ける場所を探していたのだが。
 その途中で見つけたのは、翠月茶寮のマッチを神父の手の中に押し込んだイレーネの姿であった。
「相手を選べよ‥‥」
 イレーネがナンパしているというのも珍しいが、相手は神父で、しかも親子ほど年が離れている。
「ど‥‥同感です」
 精も魂も尽き果てたと言わんばかりの県が、息も絶え絶えに同意した。
「ああ、ご苦労さん」
 1人でグレゴールを引っ張りまわしていたのだ。精神的にもさぞや疲れている事だろう。
 そんな彼を押し退ける細い腕に、油断していた県はきょろきょろと辺りを見回していたリアンの腕の中に倒れ込んだ。見た目は何の違和感もないが‥‥という事は、今の県には考える余裕もない。
「神父さまっ!」
 彼を突き飛ばしたのは、修道服に身を包んだ少女であった。
 呆気に取られた者達に、神父はにっこり彼女を紹介する。
「うちの娘さんです」
「誰が娘ですか! って、そんな事より、早く戻らないとミサに間に合いませんっ」
 神父を急かしつつ、台風のように去って行く少女とイレーネとを見比べて、凌は気の毒そうに呟いた。
「娘だってさ」
「‥‥? それがどうかしたのか?」
 このうぇいとれすに気遣いは無用であった事を、彼は今更ながらに思い出したのであった。

●修羅場の果て
 散々な日であった。
 銀行を襲った強盗を懲らしめるべく出動すれば、目の前で痴話喧嘩が始まり、出没した痴漢は追い詰められて投身自殺を図り、しかも人ごみに押されて荷物が女性に当たっただけの濡れ衣と分かった。
 間一髪、己が与えられた力を使って青年を助け、現場に戻ってみれば、強盗の自首で事件は一件落着していた。
 自分の椅子に体を投げ出した彼に、上司から声が掛かった。
「何ですか、ボス。お褒め頂ける程の働きはしてませんよ」
 額に青筋を浮かべた上司は、おいでおいでと手招きしてデスクのパソコン画面を指さす。
「ここに映っているのは誰だろうな?」
 そこには、人混みで少女に掴みかかり、間抜け面で現場に戻って来るまでが写真付きで掲載されていた。
 そういえば、現場に魔皇がいたのだと彼はようやく思い出す。
「先ほど、善良な一般市民から匿名で連絡があった」
 恐る恐る上司の顔を窺うと、口調に含まれる怒りとは裏腹の笑顔。
「お前、しばらく市民の役に立って来い」
 捜査の足しにもならない刑事などいらない。言外に含まれるニュアンスに、彼は叫びを上げた。靴やら綿ズボンや動物、果ては王子という呼び名を持つ方々に憧れて刑事になった彼のアイデンティティが脆く崩れ落ちていく。
「おーい‥‥聞こえてるかー?」
 目の前で手を振った同僚にもぼんやりとした反応を返すのみだ。
「お前に、美人からの差し入れだぞー?」
 半ば魂が抜けた条件反射的な動きで、彼は差し出された箱を開き、中に入っていたカードの文面を目で追った。
『毎日のお勤めご苦労様です。もっとご自身を大切になさって下さい』
 そんな言葉で始まるメッセージには、彼に対する労りの心が溢れていて‥‥。
「‥‥‥くっ!」
 彼は、無言で感動の涙をこぼした。
 後日、彼の姿は、小さな駅前の派出所にあった。
「我々は、皆さんの為にあるのですから」
 道を尋ねて来た老人へ穏やかに語る彼は、どうやら、今度は市民に愛される署長を目指すようである。
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この小説は株式会社テラネッツが運営する『WT03アクスディア 〜神魔戦記〜/流伝の泉』で作成されたものです。
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