どらごにっくないと

カウンターカウンターカウンター

【翠月茶寮】ほわいと・でぃ・どりーむ

  • 2008-06-30T15:58:04
  • 桜紫苑MS
【オープニング】
「3月14日が何の日か、分かっておられますよね?」
 穏やかな午後の一時は、月見里葵が発したその1言に凍り付いた。
 勿論、14日が何の日か知らぬ者はいないだろう。
 いわゆる白い日。
 2月のヲトメのバトルロワイヤルと対を為す日。
 お菓子会社に踊らされて‥‥などと苦笑混じりに言ってはみるものの、到底、無視は出来ない特別な日だ。
 男にとっても、女にとっても。
 だが、と彼らは己の記憶を探った。
 2月14日、この店では何事も起こらなかった。どれほど事細かに思い出してみても、店主や、まかり間違ってもうぇいとれすから甘い菓子を貰った覚えはない。
「分かって、おられますよね?」
 お返しを強請られる謂われもないはず‥‥なのだが。
 黙り込んだ男性陣へと、にこやかなプレッシャーを与えつつ、葵は話を続けた。
「男性からのお返しは、10倍返しと相場が決まっております。しかし、お忙しい皆様に負担をかけるわけには参りません。‥‥というわけで、男性方が女性をエスコートするパーティを開く事に致しました」
「相場は3倍と聞いた覚えが」
 ささやかな反論は黙殺された。
「パーティは会場設営から料理に至るまで、全て男性に行って頂きます。女性は、お姫様のように傅かれて甘い夢の一時を堪能して下さいね」
 その女性の中には、当然、葵とイレーネも含まれているのであろう。
「日程は、やはり皆様のご都合を伺ってからと思ったのですけれど、いつがよろしいでしょうか?」
 既に笑うしかない魔皇達は、互いの顔を見合うのみだ。
 苦笑と期待の入り交じった、形容し難い雰囲気の中、
「日曜の午前中でなければ、いつでも構いませんが」
 太陽の光が心地よい窓際の席で寛いでいた初老の男が、さも当たり前のように応えた。
 イレーネが人質となった銀行強盗事件で知り合った神父である。
 京都の中心近くにあるという彼の教会からはるばる鞍馬まで、えっちらおっちらと毎日歩いてやって来る新しい常連だ。
「‥‥日曜の朝は駄目なの?」
 尋ねたイレーネに、彼は残念ながらと頷いた。
「さすがに日曜の朝に出かけると、うちの娘さんに何を言われるか」
−そりゃそうだ。
−日曜の朝には神父のオツトメがあるだろう。
 こそこそと囁き交わされる言葉も聞こえていない様子で、彼はのほほんと笑う。
「ですが、それ以外なら参加出来ますよ〜」
「参加する気満々かッ!?」
 魔皇達が上げた驚愕の叫びをきっぱり無視して、イレーネはカウンターに肘をつき、身を乗り出した。
「参加するからには、手ぶらというわけにはいかないけど?」
「愛ならば、両手に余るほどに」
 どちらも本気なのが恐ろしい。
「では、日曜の午後からという事で」
 葵は微笑んだ。
 楚々と控え目な笑顔だが、口にした言葉は彼らに有無を言わせぬ「決定事項」である。
「当日は、店内と厨房を開放致しますから、皆様、素晴らしいパーティにして下さいましね」
 しかも、遠回しに自分達は何もしないと宣言した。
 あくまで男性から女性へという形式に拘って、客として楽しむ腹のようだ。
「いやあ、楽しみですねぇ。パーティ」
 そう思っているのは、女性陣とこの神父ぐらいだ。
 恐らく、彼は、葵が発する「中途半端なお返しは許さない」と言わんばかりの圧力は感じていない。楽しむつもりでいるから、店内の装飾から料理に至るまでの演出に悩んだりもしないのだろう。羨ましい事だ。
 肩を落とし、溜息をつきかけたその時、来客を知らせるベルがちゃりんと乱暴に鳴った。勢いよく開け放たれた扉に、彼らの視線が集まる。
「神父さまッ」
 逆光を背負って立つ修道服の少女に、魔皇達は止めていた息を吐き出した。
「おや。よくここだと分かりましたねぇ」
「毎日の事ですから」
 喫茶店に入り浸って戻って来ない神父を、このシスターはママチャリで迎えに来たのだ。小言を言いつつ、彼女は神父の襟首を掴んで連れ帰る。
 これは、毎日繰り返されている光景だ。
「では、また明日〜」
 荷台に積まれて手を振った神父に、明日も来る気なのかと魔皇達は項垂れた。
 彼らと無関係な神父が開店からおやつの時間まで居座っているお陰で、伝からの依頼は彼に気づかれぬよう、こっそりと住居部で行われるようになった。
 相談も彼がいる間は行えない。
 しかし、いつの間にか、茶寮に神父がいるのが当たり前になっている。
「慣れって怖いよなぁ」
 呟かれた誰かの言葉に、彼らは深く頷いたのであった。


【本文】
●開店準備
 いつもとは違う賑わいが翠月茶寮の店内に満ちていた。
 テーブルと椅子が運び出されて空いた中央のスペースはダンスフロア。その周囲を囲んだ和・洋・中と区分けされたスペースでは、食事やデザート、アルコールに至るまで、女性陣の要望に完璧に対応出来るよう用意されている。
「いいか。決して「無い」と言ってはならない」
 その一言を口にしたが最後。起こるであろう事態を想定して、速水連夜(w3a635)は身を震わせた。握る拳にも力が籠もる。
「どんな無茶を言われても、笑顔で「承りました」と応じるんだ」
「あのぉ‥‥でも、無いものは無いと思うのですが」
 おずおずと手を挙げた神楽蒼(w3a615)の言葉は尤もだ。いくら隠れ家と繋がる翠月茶寮とはいえ、無尽蔵な貯蔵庫があるわけではない。厨房に入る食材には限界がある。
「そういう時はな、‥‥走るんだ」
 あっさりと告げられた内容に、蒼は瞬きを繰り返した。
 単語は分かっても、その意味が繋がらない。そんな戸惑いに、連夜は教師の如き笑みを浮かべると、静かに蒼の肩に手を置いた。
「買いに行くのさ。なに、コアヴィークルを使えば市内までさほど掛かりはしない。金の事は心配するな。ちゃんとスポンサーがついている」
 バーテンダー姿でグラスを磨いていたジャンガリアン・公星(w3f277)は、諦め切った表情で1つ息を吐き出す。それを了承と受け取って、連夜は腕時計を見た。
 そろそろ時間だ。
 店の扉1枚隔て、華やいだ女性の笑い声が聞こえて来る。扉から窺い見た彼女達は、天界の園で優雅に笑いさざめく天女のようだ。
 文化祭前の満身創痍な学生状態の彼らは、互いの疲れ切った顔を見比べつつ手を重ねた。彼らの想いが1つになる。
「姫達に疲れた顔は見せないように、な」
 最後の注意を口にして、連夜は一番上に乗せた手に力をこめた。
「生きて、また会おう!」

●白い昼の夢
「本当、これだけレベルの高いいいオトコに傅かれるなんて、滅多にない事よね」
 喉が渇いたと思えばグラスが、口元が寂しい時にはチョコレートボンボンやオードブルの皿が差し出される。ナフキンやフィンガーボウル、果ては花束まで。まさに至れり尽くせりである。
 蒼の逢魔、アリシアの奏でるゆったりとしたハープも贅沢な時間を演出していた。
「その格好、似合っているわよ。リアン」
「それはどうも‥‥」
 ふいと視線を逸らすのは照れている為か。
 特設のカウンターに置かれたグラスの縁を、仇野幽(w3a284)は春の色に染めた指先でなぞる。
 日曜の午後という時間帯に合わせて選んだ生成のツーピースも、凪いだ湖面を思わせるモルダナイトのペンダントトップも春めかしい。
 リアンは幽に気づかれぬように目を細めた。
 後でと思っていたが、邪魔のいない今が好機かもしれない。彼の手が、カウンターの内側へと伸びる。ラッピングのリボンが、彼の指先にふれたその瞬間。
「ねえ」
 掛けられた声に、心臓が跳ね上がる。内心の焦りをひた隠し、リアンは平静を装って顔を上げた。
「神父様って、やっぱりグレゴールさん達と一緒にお仕事なさったりするんですか〜?」
 けれども、幽が話し掛けた相手は己ではなく。
 和のスペースで貰って来た酒とつまみを手に、カウンターへ移動してきた神父は幽の言葉に首を傾げた。
「はあ、グレゴールさんという方は存じ上げませんが‥‥」
 かくんと幽の頭が落ちる。
「名前じゃなくて名詞なんだけどな‥‥」
 やけに神父に興味を示す幽に、リアンは居ても立ってもいられずに小声で囁く。今度は隠し切れなかった動揺で、僅かに声が上擦っていた。
「も‥‥もしかして、こういう渋いのがタイプ‥‥とか?」
「リアン‥‥」
 非の打ち所ない笑みを湛えたまま、幽は素早くリアンの顎を掴む。
 リアンの唇にねっとりとした違和感が落とされた。
「余計な事を言う口はこうしちゃう」
 軽い音を立てて転がる銀色の筒。それが何か確かめる必要などなかった。
「‥‥ああ。あなたでしたか。お久しぶりです」
 唇が幽と同じ色に色づいたリアンに、以前、会った事を思い出した神父が素直に再会を喜んだ。
「気の毒なやっちゃな」
 二重の衝撃に見舞われ、隅でいじけてしまったリアンに、デリバリー中の鳳が憐れみの籠もった視線を送る。
「でもでも神父様、私も、神父様の事、何も知らないんだよね。名前教えてよ」
 リアンの悲劇など関係ないとばかりに、てててっと神父の隣りに陣取った逢坂薫子(w3d295)が尋ねた。
「それから、近くまで行った時に遊びに行きたいから、教会の場所!」
 薫子の問いは、周囲の者達が尋ねたかった事でもある。
 この新しい常連が居着いてしばらく経つというのに、職業と京都の中心近くに教会があるとしか分かっていない。
「はあ、教会の場所‥‥ですか?」
「そう。‥‥ダメ? あ、これと同じもの追加!」
 だんでぃに決めた給仕役の千代丸に空となった皿を手渡すと、彼の胸ポケットから豪奢なれぇすのハンカチーフを抜き取り、薫子は丁寧に口元を拭った。
「あああっ!? 酷うございますっ」
「何? 何か文句でも?」
 今日の主役は女性である。絶対に「否」と言うな、反論するな、逆らうなと、連夜からこんこんと給仕の心得を聞かされていた千代丸は、涙を飲んで引き下がった。
「あ、そういえば」
 ぽんと手を打つと、神父はポケットを探る。
「こんなものを、うちの娘さんに持たされているのですが」
 カウンターの上に置かれたのは、名刺サイズの紙切れだった。するりとそれを滑らせて、幽は手元に引き寄せ、書かれた文字を読み上げる。
「えーと? ‥‥上京区下立‥‥」
 几帳面な字で書かれた住所と名前と電話番号。
−‥‥迷子札‥‥
−迷子札かッ!?
「‥‥教会、安曇慎一」
 そして、続いて読み上げられた彼の名前。
「そっ‥‥それってズーム‥‥」
「て言うか、ぴったん‥‥」
 みなまで言うな。
 互いに目で示し合わせて、彼らは小さな紙から神父へと視線を移した。初老の男は、のほほんとスルメをくわえ、楽しそうに参加者達を眺めている。
「そういや、今日はあの嬢ちゃんは来ないのかい? 折角なんだから、一緒に楽しみゃあいいのに」
 若者達に走った動揺など知らぬ気に、山田ヨネ(w3b260)が水コップを突き出して話に加わる。
 素直にミネラルウォーターを注ごうとしたリアンに、ヨネは一喝した。
「水じゃないだろ、水じゃ!」
 言われてみれば、何やら酒精の匂いが漂ってくるような?
「ヨネさん、カクテルは水コップに注ぐものじゃ‥‥」
「いいんだよ! ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと酌をしな! で、どうせなら嬢ちゃんも呼んで‥‥」
「無理ですよ。日曜の午後は、教会学校の子供達の相手をしていますから」
 お前はしなくいいのかと突っ込む気さえ起きなかった。
「‥‥実はね、うちのマリちゃんが先月末に誕生日でねぇ」
 さりげなくもわざとらしく、ヨネは話題を変えた。
「一緒に祝ってやっちゃくれないかい? ああ、ノージュの嬢ちゃんもこないだだったんだね。一緒にぱーっとやろうか」
 鳳が特技の工作を駆使して作成している麻婆豆腐の出来上がりを待っていたノージュ・ミラフィス(w3g578)は、突然に呼ばれた名に長い髪を散らせて振り返った。
「いってきや、嬢ちゃん。嬢ちゃんの分はちゃあんととっとくから」
「ええ‥‥って、こっちに飛ばしちゃダメ〜っっっ」
 鳳が振り回した鏝で、豆板醤の赤い雫が飛ぶ。
 慌てて、ノージュは飛び退いた。
「このドレス汚したら、明日の朝日は拝めないのよ」
 体を震わせたノージュに、すいと手が差し出された。
 給仕達の総元締め、連夜だ。
「お嬢さん、どうぞ御手を」
 きらきらと透過光効果の掛かった薔薇の花を背負った連夜に、ノージュはイブニングドレスの裾を摘み、優雅に一礼して手を重ねる。
 雲の上を歩いているかのエスコートに任せて、彼女は恥ずかしげに俯いたマーリの隣りに並んだ。
 温かな拍手が、会場に沸き起こる。
 千代丸が即席で作った花の冠を頭に乗せて、ノージュは自分に向けられる見知った顔、見知らぬ顔の微笑みを見回した。
「皆、ありがとう! まさかこんな風にお祝いして貰えるなんて思ってもいなかったから嬉しい‥‥」
「はいはーい、誕生パーティなら、ケーキは必需品だろー?」
 まるで手品のように、薫子が差し上げた手の上に白いケーキの箱が現れた。
 洋菓子店、シュバルツバルトのケーキの登場に、歓声が沸き起こる。
「待て待てって。まずは主役から〜」
 箱から取り出したケーキに蝋燭を立てて、薫子は再び手を上げる。ささっと影がその手のひらにライターが乗せていく。
「さ、消せよ」
 マーリとノージュは顔を見合わせて笑うと、タイミングを合わせて火を吹き消した。
 先ほどよりも盛大になった拍手に、おめでとうの声も混じる。
 再び、ハープの音が和やかな時間を紡いでいく。
 彼らが聞き入っていた清らかな音色が、不意に曲調を変えた。刻む鼓動よりも少し速いテンポに、綻びかけた桜の蕾がふわりと舞う。
 薄紅のドレスを纏い、典雅な舞いを披露するのは蒼。
 まるで、オルゴールの音色に合わせて踊る人形のように可憐で、人を和ませる舞いだ。
 蒼の舞いに触発されて、会場のそこかしこに音楽に身を委ねる者達が増えていく。そんな仲間達を嬉しそうに見て、蒼は壁際に佇む女性へと近づいた。
 拍手をもって迎えてくれる彼女の耳元にさっと囁きを落とす。
−秋羅さんの為だけに、踊ったんだ‥‥。
 ほんの少し頬を染めて、蒼は続けた。
「僕、ずっと伝えたい事があったんだよ」
 温かな手を包み込み、踊りの輪の中へと誘う。
 ドレスのままだが、蒼も彼女も気にはしない。『見ため』が他人の目にどう映るかなど、些末な事だ。
「いつも優しくしてくれて、話を聞いてくれてありがとう」
 小声で、でもはっきりと告げて、蒼は彼女の頬に軽く口づける。感謝と信頼と憧れと、それから愛情とを込めて。
「ずっと、側にいます。ずっと一緒に」
 それは誓いの言葉。
 真摯な祈りを捧げるように、蒼は彼女の指先に唇を押し当てた。
「皆、いい雰囲気ね」
 折角ドレスアップして来たのだから踊りたいなと、片肘をカウンターについて溜息を漏らしたノージュの視界を、幽とリアンが過ぎっていく。
「では、お嬢さん。私と一曲ご一緒して頂けますか?」
 ならばと、連夜がパートナーにと名乗り出た。
「喜んで」
 流れる旋律に乗り、店内は一時の甘い時間を共有する者達で溢れた。今、この時だけは相手しか見えない。
「‥‥‥‥」
 ノージュの手を取って踊る連夜の頭の隅に、何かが引っ掛かった。
 穏やかな時間。
 宴の成功以外に、今の彼が気に留める事など無いはずだ。
 はずなのだが‥‥。
「どうかしたの?」
 首を傾げたノージュに、連夜はふと思いついた名を口に乗せる。
「影月」
「って、あなたの逢魔の?」
 彼らの会話に聞き耳を立てる者などいない。皆、パートナーと緩やかなリズムを刻む。
「3日程見ていないんだ。そういえば」
「‥‥え?」
 いなくなって3日。普通であれば、捜索願いを出していてもおかしくはない。しかし、彼らは魔皇と逢魔だ。一般の者達とは違う。
「なにか思い当たる事はないの?」
 家出にせよ何にせよ、主にひっそり影のように付き従っていた闇執事が消えたというのはおかしい。神帝軍に捕らえられたか、それとも‥‥。
 浮かぶ悪い想像に、ノージュは表情を曇らせた。
「確か、プレゼントを探すとか言って」
「街に出たの!?」
 では、やはり神帝軍か。それとも事故、事件‥‥。
「ここの3階に上がったんだ」
 ノージュの顔からみるみる血の気が引いた。
 この茶寮、人の手が入った1階と2階を除いた階が人外魔境であるとは出入りする者であれば誰もが知っている。時折、怪しげな祈祷や唸り声が聞こえて来る、あの未踏の地に踏み入ったと言うのか。
「無事に戻って来るといいけど‥‥」
 祈りを込めて、ノージュは天井を仰いだ。

●星を見つつ
 皆がそれぞれに時間を過ごし始めて、ようやく葛城伊織(w3b290)は一息をつく事が出来た。
 和風スペースを切り盛りしていたのは彼だけである。当然、客が訪れる間はスペースを離れる事も出来ず、茶をたて、懐石だ茶菓子だと走り回っていたのだ。
「お疲れ様」
 壁に背を預けてへたり込んでいた伊織は、葵の言葉に片手を挙げて応える。
「いつの間にか夜になっちまってたな」
「日付が変わる時間になって何を言っているのよ」
 笑った葵にそうだなと苦笑して、伊織は酒器を2つ手に取った。
「折角だからな。風にあたりながら一杯やらないか」
 中庭へと続く扉を押し開けると、どかり地面に胡座をかく。隣に座った葵に、酒器になみなみと注いだ酒を手渡すと、自分の器も満たした。
「星見酒だ」
 澄んだ空に無数の星。
 自然と重ねる杯も多くなる。
「葵」
 返事はない。代わりに、どこか緩慢な動きで彼女は首を傾げた。いつもと様子の違う彼女を訝しみながらも、伊織は言葉を続ける。
「俺は葵が好きだ。誰よりも何よりも‥‥」
 ぴたりと葵の動きが止まった。
 闇の中でも、分かるくらいに葵が驚いているのが分かる。だが‥‥。
「これだけはちゃんと言っときたかっ‥‥」
 ことんと伊織の肩に落ちる頭。
「あ‥‥葵?」
 どきまぎと、伊織は凭れ掛かった葵の様子を窺った。
「おーい、葵ー?」
 どうやら眠ってしまったようである。先ほどまで飲んでいた酒の器がころんと転がった。
 いつも決して弱い面を見せる事のない葵の、無防備な寝顔。
「疲れてたんだな、葵」
 へへっと伊織は照れた笑いを浮かべた。
「こんな風に寝ちまうって事は、少しは俺を信頼してくれてるって思ってもいいよな?」
 夜の空気は冷たく、色濃く冬の気配を残している。寒いからといって病を得るわけではないが、せめてと、伊織は幾分緊張して葵の肩に手を回し、己の方へと引き寄せた。

●夜は更けて
 潰れて転がる屍の山に毛布を掛けて回っていたマーリは静かに微笑んだ。
 2人で寄り添い合って眠る蒼、鳳やヨネ達によってたかって枕にされ魘されるリアン。恐らくは無断外泊であろう神父は伊織の一升瓶を抱え‥‥。
 店内を見渡した彼女は、中庭にも動かない人影を見つけて毛布を傍らのテーブルに置く。さすがに外では寝かせられない。せめて店内にと中庭へ続くテラス戸に手を掛けたマーリをノージュが止めた。
 静かにと指を唇に当てて、彼女は悪戯っぽく笑う。
「今行くと、お馬に蹴られちゃうわよ」
 1つだと思われた影が、実は2つである事に気づいて、マーリもはいと頷いた。仮にも魔皇だ。外で夜を明かした所で風邪を引くわけでもない。
 そうして、2人の少女の気遣いの結果、どこかぎこちない動きの伊織に謝り倒している葵という世にも珍しい光景が、翌朝の翠月茶寮で目撃された。
 なお、影月はその更に3日後に帰還。
 何故だか日にこんがりと焼けた彼は、多くを語る事はなかったという。
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この小説は株式会社テラネッツが運営する『WT03アクスディア 〜神魔戦記〜/流伝の泉』で作成されたものです。
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